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私の第三十四夜をつづります。

車中と待合室での読書

 7日、横浜に出かけた。
 電車のなかで、また、待合室のなかで、図書館で借りてきた本を読む。
 読みながら、2017年の今の日本の現状と置き換えて理解し、共感する部分があった。
 現在の私の場合、その内容も、読んで感じたことも、またたくまに記憶の泥沼のなかに沈んでいってしまうはず。沈んだものを、あとで掬いだすためにも、書き留めておく。

以下は”中江兆民”の言説。
<「日本の思想」(『丸山真男セレクション 杉田 敦 編 平凡社 2010年)からの引用>

「・・・・・・吾人が斯く云へば、世の通人政治家は必ず得々として言はん、其れは十五年以前の陳腐なる民権論なりと、欧米諸国には盛に帝国主義の行はれつつある今日、猶(な)ほ民権論を担ぎ出すとは、世界の風潮に通ぜざる、流行遅れの理論なりと。・・・・・・然り是れ理論として陳腐なるも実行としては新鮮なり、箇程の明瞭なる理論は欧米諸国には数十百年の昔より実行せられて、乃(すなわ)ち彼国に於ては陳腐となり了はりたるも、我国に於ては僅に理論として民間より萌出せしも、藩閥元老と、利己的政党家とに揉み潰されて、理論のままに消滅せし故に、言辞としては極めて陳腐なるも、実行としては新鮮なり、夫(そ)れ其実行として新鮮なるものが、理論として陳腐なるは果して誰れの罪なる乎」 (一年有半、明治三十四年版 付録)

 私にとって、中江兆民は教科書で名前のみを知った人。何一つ知らない歴史上の人物。
 それなのに、その声は直接的に聴こえてきた。
 そして、その声は、私が現憲法に感じていることを代弁してくれているように聴こえた。
 理論・理想の実行をこそ、目指さなければならない。そのための憲法なのだ、と励まされたように感じたのだ。
 現憲法を尊重・擁護する義務を負うべき政治権力者が、その憲法を”いじましい、みっともない憲法”と理解するならば、一人の国民としては、現憲法を揉み潰され、理論のままに消滅せしめるわけにはいかない…そう思ったのだ。

以下は丸山真男による本論の一部分。
<「日本の思想」(『丸山真男セレクション 杉田 敦 編 平凡社 2010年)からの引用。太字は 傍点の「

明治憲法において 「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義美濃部達吉の言葉) や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など憲法的存在の媒介によらないでは国会意思が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為機関(神輿(みこし)担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼(ほひつ)」とはつまるところ、統治の具体的正統性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。」

 ”巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している”…私の関心が切り取られたのが、この言葉だった。
 なぜか、日々をやり過ごすうちに、無責任な流れのなかに転落している自分を思い起こしたから。
 かつて、人々はなぜ戦争を止めることができなかったか。私がその人々だった、と思ったから。

 こうして、高名な思索家の文章を書き写しながら、その思索の跡をたどってみる。
 私にはむずかしい…。でも、理解できることもある。だからもっと知りたいと思う。
 そして、行き着くのは、自分が何も勉強してこなかった…ということ。
 自分の考えを自分の言葉であらわすことがどんなにむずかしいことか、ということ。
 残念だけれど、今分かるのはそうしたことぐらいだ。

待合室のからくり時計:午後3時の瞬間に動き出したところ。1時間ごとに文字盤の下から鐘が顕れ、メロディが流れる。”時の裂け目”から顕れるのは、たぶん”平和”を告げる鐘の音だ。
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