enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

いつのまにか10月22日。

 

やはりコロナ禍は、人々や社会に、じわじわと不健全な影響を及ぼしているのでないか。

少なくとも私は、自分の中に不健全なものが常住しはじめたように感じている。
新しい季節を迎えても、心や身体はそれを十全に楽しめていない。どこか、これまでとは違う気がする。

コロナ禍によって生まれた不吉な何かが、私たちとともに未来へと歩みを進めている。
(その不吉な何かは「カオナシ」のように社会につきまとい、世界から”良きもの”を吸い取っているかのようだ。)

 

今朝、「キース・ジャレットが再起不能の可能性」という記事を読んだ。
(この前は高田賢三が亡くなったように、時代が生んださまざま美しい花が末枯れてゆく。消えてゆく。)

およそ45年前…友人を通じて知ったキース・ジャレットの名、その「ケルン・コンサート」の音。
当時、友人が住んでいた会社の寮の小さな部屋に、同期のみんなが集まっていた。
その夜、ふと、友人が1枚のLPを聴かせてくれたのだった。
みんな、膝を抱えながら聴き入った。
私は、宇宙のように暗く、そして輝かしい空間の奥深くに迷い込んだような気がした。(このことは、すでに、”enonaiehon”:2017年8月20日「響きと記憶」にも書いた。)

3年ぶりに、再び、ネット動画で「ケルン・コンサート」を聴いた。
美しいものが甦り、”良きもの”が戻ったように感じることができた。

 

その直ぐあと、なぜか、家族との間でちょっとした言い争いをした。
それは、『運命の力』の「神よ、平和を与え給え」を林康子さんが歌っているのを聴いたことがあるかどうか?という、何とも偏狭な言い争いだった。

家族は「聴いたことがない」と言い、私は「林さんの ♫ パーチェ パーチェ ♫ の歌声がはっきり聴こえてくる(だから、聴いたことがある)」と主張した。

で、結果、私が”勝った”( 私のMDには、林康子さんのその歌声が録音されているのだから、これ以上の証拠は無いのだった。家族は、「勘違いをしていた…」と素直に”負け”を認めた)。

この流れで、古いMDを引っ張り出すことになった。
そして、林康子さんの「神よ、平和を与え給え」から始まって、市原多朗さんのアリアにも聴き入ることとなった。本当に久しぶりに聴いた輝かしい声だった。

また、再びネット動画でマリア・カラスの「神よ、平和を~」も聴いた。そして、やはり、美しいものが甦り、”良きもの”が戻ったように感じることができた。

 

音楽は、コロナ禍の不健全と不吉を浄化する…10月22日の朝、いっとき、心が生気を取り戻した。

 

f:id:vgeruda:20201022211904j:plain 10月22日の薔薇(人魚姫の公園で)