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私の第三十四夜をつづります。

ミャンマーで ⑦ エーヤワディー川は変わらぬ姿で、と思う。

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古都マンダレーの西を流れるエーヤワディー川(昔、覚えた名前は”イラワジ川”)

 

若い頃、毎日の通勤で…その3分の2以上の期間、国鉄を利用したけれど、ボックス席の窓下に備えられていた灰皿が消えたのは、いつ頃だったろう?…平塚駅から東海道線に乗り、東京駅丸の内北口を出たあと、右手のガード下に沿う道を、地下鉄東西線大手町駅に向かう…というルートをとっていた。

その北口を出て直ぐのところで、”靴磨きの人”を見かけていた。
急ぎ足で通り過ぎながらも、通勤客の足先が小さな台に預けられ、紐のついた革靴がサッサ、サッサと磨かれる動きを、横目で見ないではいられなかった。
(JRになって、見慣れた風景はほとんど消えていったけれど、あの”靴磨き”の姿は今も見られるのだろうか?)

また、夕刻ともなれば、ガード下の立ち飲み屋さんはささやかな賑わいを見せた。
店前の路上で、仕事帰りの男性たちが小さな高い卓を囲む。
その場所の緩んだ空気感も見過ごせなかった。
(『日本酒だろうか? ワインもあるんだろうか?』などと、やはり横目で見ながら通り過ぎた。)

 

ミャンマーの旅から帰り、ミャンマーで懐かしく感じたものが、ちょっと昔の日本にもあったのだと思った。
そして、ふと思い出したのが、あの”靴磨きの商売”というものだった。
(裸足やサンダル履きがほとんどのミャンマーで、”靴磨きの商売”は見かけなかったけれど、境界を持たない路上や屋外の商売に、しばしば眼を奪われた。)

なぜ、ミャンマーの路上や屋外の商売が新鮮に懐かしく見えてしまうのだろう?
日本の人々は、生活の清潔さ・豊かさ・正しさを手に入れた裏返しに、生身の人間の個々別々の存在・”なりわい”のあり方を、社会の視界から遠ざけ、生き延びさせないようにしてきた…のだろうか?

ミャンマーで普通に眼にする風景と、日本で普通に眼にする風景との違い。その違いはとても大きいように見えた。それでも、これからのミャンマーにおいても、まず都市部から、 日本と同質の(世界の都市部と同質の)風景を獲得していくのかもしれない。

世界で進行してゆく文明の波に洗われ、その経済の影響力に抗えない人間が、土着の生身の人間存在・”なりわい”のあり方を駆逐し、社会は奇妙に同質的な姿へと変化をとげてゆく…その行き着く先の社会の魅力とはどういう魅力なのだろう。
ヤンゴンなどの都市部で、またミンナントゥ村などで見かけた人々の姿から、そんなとりとめないことを思ったりする。

 

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漁をする人(ウーベイン橋から アマラプラ)     立ち漕ぎをする人(インレー湖 ニャウンシェ)

 

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”肉まん”を売る人(タビニュ寺院 バガン)      アーケード街のおもちゃ屋さん
                         (マハムニ・パゴダ マンダレー)        

 

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”タナカ”を塗る人(ダマヤンジー寺院 バガン)    ”タナカ”を塗った男の子(ミンナントゥ村 バガン

 

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祈る僧侶(シュエダゴン・パゴダ ヤンゴン)     老人に托鉢のご飯を分ける若い僧
                          (マハーガンダーヨン僧院 アマラプラ)      

 

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(左)黄金のマハムニ仏を拝する幼い尼僧  (右)得度式の子どもと家族〔マハムニ・パゴダ マンダレー〕:
マハムニ・パゴダの”黄金のマハムニ仏”が座す場所は女人禁制のため、女性はみな、外から拝している。

 

 

 

カタルシスの無い『パラサイト』

 

昨日は温かな陽射しに誘われ、散歩に出た。その帰り道で映画館に寄った。
 (本当は、封切りになった韓国映画『パラサイト』を観るために散歩に出たのだ。)

映画を観終えて、頭がふらつくように感じた。

私におよそ想像できていたのは、描かれる”貧困”のディテールの度合いぐらいだったと思う。
で、貧困なのは私の想像力だった。

物語の展開は、眼を覆うほどに…実際に、暗闇のなかで、思わず両手で眼を覆ってしまったほどに…予定調和的な道筋を避け続け、”キャタストロフィー”へと暴走していった。
(物語の展開に動揺した気持ちに振り回されないよう、あえて映画の虚構性を意識してみる。それには、カタルシス、ディテール、キャタストロフィーといった片仮名言葉で書き記すほうがふさわしいように感じている。果たして、この物語の展開について、韓国での観客の受けとめ方はどうだったのか?と気になりつつ。)

そして、入れ子状(?)のパラサイトの仕掛けが暴かれてから始まる”貧困と貧困の生存闘争”の過激さ、人々のそれぞれが”貧困臭”か”富裕臭”かを自然に漂わせていることを感じ取る長男の繊細さ(現実社会にそうしたものがあると感じるか、を観客は問われる)、自らをパラサイトの最下層に閉塞させて生きるしかない男の絶望、”確かな信仰や倫理なるもの”の不在(”山水景石”を人々の生存欲の象徴として見た時、その”より良い扱い方”へと導くものが”信仰や倫理なるもの”であるとすれば…)が、カタルシスへの道をことごとく塞いでいるのだった。

つまり、観終わっても”息苦しい”。

”長女”はなぜ? ”お父さん”はなぜ? と片付けようがない「?」を抱えて現実空間に戻るしかない。
(田中裕子さんに似た、毒蝮三太夫さんに似た、個性的で親近感のある役者さんの顔が浮かんでくる。不思議なことに、”お母さん”は何からも自由で、葛藤がないように思える。彼女だけが、信仰や倫理からも自由で生存欲のままに生きることが許される存在なのか?…強いということなのか?…。)

エンディングで流れる曲は、どこか、S&Gの「I Am A Rock (アイ・アム・ア・ロック) 」と重なる響きがあった。その響きと乾いた声が、映画の重い空気をふっと薄めてくれるように感じた。

 

 

f:id:vgeruda:20200202112913j:plainミャンマーでの日没 

 

ミャンマーで ⑥ 自由な犬と、もともと自由な猫たち

 

ミャンマーで私が見かけた犬は首輪や鎖から自由だった。
怖いほどに精気にあふれた犬は見かけなかった。
みな、とぼとぼと歩いているか、場所を選ばずに、土ぼこりにまみれて、脱力状態にあるか、寝ているか、していた。
ただ、子犬は誰かと遊びたそうなくらいは元気だった(そうでなくちゃね)。

猫のありさまは日本と変わらない…たぶん。

 

ミャンマーの犬】

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元気に育ちますように(スラマニ寺院で バガン)   颯爽と歩く?(シュエジーゴン・パゴダ バガン

 

ミャンマーの猫たち】

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耳が少し大きい?(ティーローミンロー寺院で バガン) 椅子の下から客におねだりする声が…
                         (エーヤワディー川を眼下にする食堂で バガン) 
 

 

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カメラが厭?(マハーガンダーヨン僧院で アマラプラ) その眼つきは?(旧王宮で マンダレー
    


f:id:vgeruda:20200201101150j:plainひんやりとした大理石の上でまどろむ猫(クトードォ・パゴダで マンダレー

 

 

ミャンマーで ⑤ アーナンダ寺院の11世紀の仏像

 

12世紀建立のスラマニ寺院で私が見た仏様の多くが坐像・涅槃像であったのに対し、11世紀建立のアーナンダ寺院で東西南北のそれぞれに配された仏像は、巨大な立像(高さ約9.5m)だった。

ガイドさんは「北と南の仏像は創建時の11世紀代のものです。1本のチーク材からできています。」と説明する。
(この説明を受けたのはたぶん、”北”の像だったと記憶しているのだけれど。)

そして、ガイドさんは参考資料として、携帯に保存された古そうなモノクロ写真…おそらくイギリス統治下時代に撮影されたもの?…を私たちに示す。
(森から伐採されたチークの巨大な切り口が写っている。横に立つ人の身長からは、直径数mはあるように見える。11世紀代にも、こうした巨大な像を掘り出せるほどに、豊かな森林があったのだろう。)

「仏像の中は刳り抜いてあるんですか?」と聞くと、ガイドさんからは「いえ、刳り抜いていません。木のままです。」という答えが返ってきた。

アーナンダ寺院で初めて、こうした11世紀代の”一木造り”の仏像を拝したことで、『ここには、長谷寺の観音様のようにな巨大な仏様が残っていたのだなぁ…』と、”一木造り”の仏像の制作者に親近感のようなものを持ったのだった。
(ただ、金色に輝くエキゾチックな顔立ちにはとくに注目することはなかった。翌日には、スラマニ寺院で”うねる瞼”に出会い、仏様の顔立ちの違いに驚くことになるのだけれど。)

11世紀…それは歌人相模の初瀬参詣の旅を追いかけている私にとって、見過ごせない時代だった。歌人相模が祈りを捧げた当時の初瀬の観音様はどのような眼をしていたのだろう?

時代により、地域により、実にさまざまな仏陀の偶像表現が生まれながら、その姿のままに、いつの時代も人々から祈りを捧げられ続けてきたこと…仏教が伝播の道筋でそれぞれに変容を遂げていった先に、多種多彩な偶像表現が生き続けていること…その在り方は彼我の言語の違いほどに違っていそうなこと…ミャンマーの旅を経て、そんなことを改めて感じている。 

 

アーナンダ寺院の巨大な立像】

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 北の立像:
額にカチューシャのような飾りを着ける。

 

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 南の立像:
螺髪が良く見て取れる。
また、先に見学したシュエジーゴン・パゴダ(パヤー)の見学のなかで、「仏像は時代が下ると、螺髪の表現は省略されます。はっきりとした脚の表現もなくなります」という説明を聞いていた。確かに、腰から太ももにかけての曲線・丸みが強調された造形。

 

参考:シュエジーゴン・パゴダ(パヤー)の新しい様式の立像】

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顔立ちも没個性的(?)になって、平板な印象。

 

 

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    アーナンダ寺院の小さな坐像:
   剣で髻を切るような(?)仕草を見せる。 

 

アーナンダ寺院の近くに建つタビニュ寺院:
外壁は漆喰の白さを残し、西洋の教会建築のような雰囲気を感じた。

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ミャンマーで ④ 外光が差し込むスラマニ寺院

 

f:id:vgeruda:20200128140837j:plain修理中のスラマニ寺院(バガン):
2層の美しいピラミッド型のシルエットはこの位置からは望めない。加えて、地震の被害を受けた仏塔部分が工事中だった。

 

初めてのミャンマーの旅のなかで、”寺院と呼ばれる建物”を実際に眼にしたことで、私が若い頃から”ビルマ的”…と感じていたものは、実は”仏塔(パヤー)”というものらしい…と分かった。

一方、”寺院と呼ばれる建物”は、土着的な色彩…白の漆喰を失ったことで、もともとの風土の色合いに回帰している…に古色を帯びて神秘的であり、また、その一様にどっしりとした重量感やシルエットは、むしろ”西洋的”…私のイメージでは、ヨーロッパの教会建築にも似た重厚さ…とも感じられた。

そして、ミャンマーでの仏塔・”寺院と呼ばれる建物”の在り方は、日本での寺院の在り方(人々の受けとめ方)とはかなり異なっている(むしろ、”暮らしのなかの祈願の場”としての神社の在り方、人々の受けとめ方に近い?)ということも分かった。

私が見かけたミャンマーの人々は、仏塔や”寺院と呼ばれる建物”において、仏様の前で座り込むようにして熱心に祈っていた。

ガイドさんは「自分のために祈るのではなく、大切な人のために祈るのです。みんな、自分の収入の10分の1くらいを寄付するんです。私もしています。」と明るく説明するのだった。
(私は若い頃、人前で祈ることに強い抵抗があった。今でも、人前で神仏への祈りに没入することはできない。そして、ミャンマーの人々のなかに、私のように、”人前で祈ること”へのためらい・抵抗感を持つ人がいるようには思えなかった。)

 

”うねる瞼”に捉われたスラマニ寺院では、ガイドさんの後を追いかけるのがやっとだった。
それでも、仄暗い回廊を抜けるごとに、風が行き来している装飾的な扉から差し込む外光のやわらかさを感じ取った。

花やビルマ文字(?)などをデザインした扉。
 その文字は、視力検査で、「右」とか「上」とか、輪が切れている方向を答える記号(”C”に似た記号)が連なるように見え
る。その上には、24枚の花びらの紋様が載っている。

 

f:id:vgeruda:20200128140856j:plain施釉(緑と黄の二彩?)された外壁部分:
緑釉陶器より淡い緑。外壁のこの部分が美しく施釉されたのはなぜなのだろう?

 

f:id:vgeruda:20200128140928j:plainスマホを見る少女:
お供えの花を売る彼女の頬には”タナカ”(日焼け止めの化粧品)が塗られている。
金属の扉は光と風の通り道であり、”荘厳”ともなっている。

 

f:id:vgeruda:20200128140946j:plain花を売る少女を見守るような”鬼”(?)の壁画:
牙を持ち、鬼の様相を見せているけれど、瞳が明るく、快活な若者の印象。

 

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     捧げものを掲げる女性の壁画:
     下の絵(原画の描線?)を描き直したように見える。
     女性は、小島功氏が描いた”河童の奥さん”の雰囲気に似ている?

 

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光と風が通る扉:
上には花ビルマ文字、下には向かい合う”蛇身”(?)の紋様。

 

         参考:観光バスの車内に掲げられていた
             24弁の花びら形の”お経”
               (ガイドさんの説明では、仏様を中心に、
                パーリ語の24項目のお経が記されているらしい。)

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ミャンマーで ③ ”うねる瞼”に出会う。

 

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”うねる瞼”:スラマニ寺院の壁画(バガン

 

数年前から、鶴見で開かれている仏教美術の講座に参加してきた。
その講座のなかで、先生が何度か指摘した”うねる瞼”・”つりあがる目尻”を持つ仏像や画像の事例が、ずっと心に引っかかっていた。

先生が指摘した一つの典型例が、岩手県・黒石寺の薬師如来坐像(862年)だった。

 

f:id:vgeruda:20200125233328j:plain”うねる瞼”:黒石寺の薬師如来坐像(「みちのくの仏像」展〔東京国立博物館 2015年〕のチケットから)

先生が”うねる瞼”・”つりあがる目尻”という表現について言及した時、「みちのくの仏像」展で初めて出会った黒石寺の薬師如来坐像が、なぜ異様な強い力を発散していたのか、その秘密が分かった気がした。そうか、あの仏様は”うねる瞼”をしていたのか、と。

そして今回、ミャンマーの旅のなかで、”うねる瞼”に再び出会った(黒石寺の仏様のあの眼だ、そう思った)。

旅から戻って、そのバガンの寺院(スラマニ寺院など)の仏像や壁画に表現された”うねる瞼”の源流はどこなのか?が気になって落ち着かない。

同じような”うねる瞼”が、なぜ、9世紀中葉の黒石寺の仏像と、12~19世紀のバガンの寺院の仏像・壁画において表出するのだろう?

(鶴見の講座では、黒石寺の薬師如来坐像の”うねる瞼”に共通する事例として、「金剛薩埵像 頭部 唐・9世紀 敦煌莫高窟14窟」の画像が示され、9世紀の唐の表現が直接的な形で影響した可能性も?との言及があった。
 また、鶴見の講座で配布された資料を、改めて”うねる瞼”という視点で眺め直してみると、興福寺の「木造仏頭」(運慶作 1186年)、神護寺の「僧形八幡神像」(鎌倉時代)、東大寺の「僧形八幡神坐像」(快慶作 1201年)などにも、”うねる瞼”に通じる表現が感じられるのだった。)

日本では、9世紀中葉と12世紀末といった時代に”うねる瞼”の事例があるとして、それは、どこかでミャンマーでの”うねる眼”に結びつくものなのだろうか、まったく関係の無いものなのだろうか?

それに、昔、TV番組のなかで見たネパールの仏塔の外壁に描かれた大きな眼も、今思えば”うねる瞼”だった。あの表現はいつ頃から定着したものなのだろう?

当分、こうして、ああでもない、こうでもないと、”うねる瞼”の謎にとらわれ続けるのだ。

ミャンマーで出会った”うねる瞼”…私一人だけが抱える謎…がまた増えた…。

 

【スラマニ寺院で出会った”うねる瞼”】

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*壁画のそれぞれの制作年代については情報が少なく、つかみきれなかった(寺院の年代としては12~19世紀とかなりの時間幅をもつが、画期は12世紀・18世紀頃にあるのだろうか?)。
ただ、下段左の白・緑の色調の対比が美しい絵は、耳の形も曲線的で、やや古い時期のような印象を持った。

なお、同じように古い時期の制作?と感じられた壁画には、次のようなものもあった。

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【上:悪魔?と蛇?と仏様、中:象、下左:漁?のようす 下右:下左図左半部の拡大】

 

また、スラマニ寺院だけでなく、次の寺院でも、”うねる瞼”の像に出会った。 

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【左:ダマヤンジー寺院(12世紀建立) 右:ティーローミンロー寺院(13世紀建立)
*ともに、仏像の制作年代は不明。

 

≪補記≫
このように、それぞれの仏像・壁画の表情は個性にあふれ、表現様式は混沌としているように見える。それでいて、上瞼が波打ち、半眼として描かれている点は共通している。
一方、黒石寺の薬師如来坐像の表情は厳しく近寄りがたい点で、ミャンマーのこれらの造形表現とは一線を画しているし、影響が推定される9世紀の唐の画像のやわらかで物憂げな印象とも異質だ。
やはり、黒石寺の事例は、鶴見の講座の先生が想定されているように、「厳しい表情は、神像の表現との関連」や「”神”と”仏”の交渉の産物であった可能性」を考えるべきものであるのだろう。

ミャンマーで”うねる瞼”と出会って、思わず『さまざまな”うねる瞼について、その源流をさかのぼれば、ひとところに行き着くのでは?』と妄想をめぐらせる時間をもったことは、鶴見の講座で、先生の専門的かつユニークな視点に接することができたから…そう思う。) 

 

 

ミャンマーで ②

f:id:vgeruda:20200125120525j:plain渋滞中のバスの窓からヤンゴン 2020年1月20日

 

15日は、機内に1冊の本を持ち込んだ。久しく読むことがなかった村上春樹…その短篇集(『女のいない男たち』文藝春秋 2014年)を選んであった。

途中、いつものように頭痛薬を飲んだにせよ、ビルマまでの7時間弱、6篇の物語世界に順繰りに分け入ることで、いつになくふわふわとした浮遊感のなかで過ごすことになった。
ヤンゴンの空港に着くと、物語世界の浮遊感がそのまま、長く座り続けた脚のふらつき、頭の揺らめきと重なった。

『女のいない男たち』のなかで、若い頃の私が”村上春樹的世界”と感じていた物語空間に通じてゆけそうな感触(既視感)があったのは、「シェエラザード」と「木野」の2篇だった(正確には、かつて味わった感触を探そうとしただけかもしれない)。

そして、私たち一行がぞろぞろとヤンゴンの33度の外気温を受け入れてゆくなかで、”シェエラザード”も”木野”も、速やかに村上春樹的世界”へと退いていった。

 

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綿の花(バガン:ミンナントゥ村)

 

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黄色の花(バガン:ミンナントゥ村)

 

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細く白い花(バガン

 

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リュウキュウミスジに似た蝶(バガン:ポッパ山)

 

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ブーゲンビリアバガン

 

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黄色の花(バガン

 

f:id:vgeruda:20200125105354j:plain夕焼け(インレイ湖畔)