古都マンダレーの西を流れるエーヤワディー川(昔、覚えた名前は”イラワジ川”)
若い頃、毎日の通勤で…その3分の2以上の期間、国鉄を利用したけれど、ボックス席の窓下に備えられていた灰皿が消えたのは、いつ頃だったろう?…平塚駅から東海道線に乗り、東京駅丸の内北口を出たあと、右手のガード下に沿う道を、地下鉄東西線大手町駅に向かう…というルートをとっていた。
その北口を出て直ぐのところで、”靴磨きの人”を見かけていた。
急ぎ足で通り過ぎながらも、通勤客の足先が小さな台に預けられ、紐のついた革靴がサッサ、サッサと磨かれる動きを、横目で見ないではいられなかった。
(JRになって、見慣れた風景はほとんど消えていったけれど、あの”靴磨き”の姿は今も見られるのだろうか?)
また、夕刻ともなれば、ガード下の立ち飲み屋さんはささやかな賑わいを見せた。
店前の路上で、仕事帰りの男性たちが小さな高い卓を囲む。
その場所の緩んだ空気感も見過ごせなかった。
(『日本酒だろうか? ワインもあるんだろうか?』などと、やはり横目で見ながら通り過ぎた。)
ミャンマーの旅から帰り、ミャンマーで懐かしく感じたものが、ちょっと昔の日本にもあったのだと思った。
そして、ふと思い出したのが、あの”靴磨きの商売”というものだった。
(裸足やサンダル履きがほとんどのミャンマーで、”靴磨きの商売”は見かけなかったけれど、境界を持たない路上や屋外の商売に、しばしば眼を奪われた。)
なぜ、ミャンマーの路上や屋外の商売が新鮮に懐かしく見えてしまうのだろう?
日本の人々は、生活の清潔さ・豊かさ・正しさを手に入れた裏返しに、生身の人間の個々別々の存在・”なりわい”のあり方を、社会の視界から遠ざけ、生き延びさせないようにしてきた…のだろうか?
ミャンマーで普通に眼にする風景と、日本で普通に眼にする風景との違い。その違いはとても大きいように見えた。それでも、これからのミャンマーにおいても、まず都市部から、 日本と同質の(世界の都市部と同質の)風景を獲得していくのかもしれない。
世界で進行してゆく文明の波に洗われ、その経済の影響力に抗えない人間が、土着の生身の人間存在・”なりわい”のあり方を駆逐し、社会は奇妙に同質的な姿へと変化をとげてゆく…その行き着く先の社会の魅力とはどういう魅力なのだろう。
ヤンゴンなどの都市部で、またミンナントゥ村などで見かけた人々の姿から、そんなとりとめないことを思ったりする。
漁をする人(ウーベイン橋から アマラプラ) 立ち漕ぎをする人(インレー湖 ニャウンシェ)
”肉まん”を売る人(タビニュ寺院 バガン) アーケード街のおもちゃ屋さん
(マハムニ・パゴダ マンダレー)
”タナカ”を塗る人(ダマヤンジー寺院 バガン) ”タナカ”を塗った男の子(ミンナントゥ村 バガン)
祈る僧侶(シュエダゴン・パゴダ ヤンゴン) 老人に托鉢のご飯を分ける若い僧
(マハーガンダーヨン僧院 アマラプラ)
(左)黄金のマハムニ仏を拝する幼い尼僧 (右)得度式の子どもと家族〔マハムニ・パゴダ マンダレー〕:
マハムニ・パゴダの”黄金のマハムニ仏”が座す場所は女人禁制のため、女性はみな、外から拝している。