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私の第三十四夜をつづります。

ケルゼン「民主主義の擁護」

 ハンス・ケルゼン「民主主義の擁護」(1932年)の最後の部分を繰り返し読む。
 そこに掲げられた言葉のなかには、民主主義や自由について無自覚な私にとって、戸惑いの残る部分があったから。

『民主主義の本質と価値 他一篇』(ハンス・ケルゼン 著 長尾龍一・植田俊太郎 訳 岩波文庫 2015年)から
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「…もはや民主主義の擁護も理論的擁護にとどめるべきか」という問題が起こる。「民衆がもはや民主主義を欲しなくなり、多数者が他ならぬ民主主義破壊の意志において結集している場合、民主主義はその民衆、その多数者に抗して自らを防衛すべきか」。この問いを設定すること自体、「否」と答えることに他ならない。多数者の意志に抗して、実力行使に訴えてまで自己主張する民主主義なるものは、もはや民主主義ではない。民衆〔Demos〕の支配〔Kratos〕である民主主義が民衆に敵対して存立し得るはずがないし、そのようなことは試みるべきでもない。民主主義者はこの不吉な矛盾に身を委ね、民主主義救済のための独裁などを求めるべきではない。船が沈没しても、なおその旗への忠誠を保つべきである。「自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほど、やがていっそうの強い情熱をもって再生するであろう」という希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈みゆくのである。」
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 これらの言葉をどう受け留めればよいのだろう…。
 自由の理念の達成とは、それを実現しようとする情熱と行動そのもののなかに在る(現実に実現し得ないからこそ、絶対的に破壊し得ない?)、ということだろうか。
 そして、民主主義破壊の意志で結集する多数者の乗る船を沈めることなく、その船に乗り移ることもなく、自由という理念の再生への希望のみを抱いて沈みゆけばよい、ということなのだろうか…。
 何度読み返しても、すっきりとは分からないままだ。