enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

響きと記憶

 人の内部に、仮に記憶の沼があるとして、私の場合、その表面に漣が立つきっかけがいくつかある…ように思う。 
 それは光の射しこみかただったり、風の気配だったり、ふとした匂いだったり、音の響きぐあいだったりする。
 ある瞬間、光や風、匂いや音などの刺激によって、”はて…これはなんだったか?…”と、記憶の沼の表面がゆらぎはじめる。
 たいていは幼い頃、若い頃に受けた刺激の記憶につながってゆく。
 (さびしいことに、最近受けた刺激の記憶はほとんど痕が残らない。なので、ずっと昔の記憶を呼びさますことになる。)
 
 昨夜、ひとしきり激しい雨が降ったあと、窓からリリリ…と虫の音が聴こえてきた。
 そして、入ってくる風も、このまま秋になってしまいそうな風だった。
 昼間読みかけた友人のメールを開くと、そのなかに「スペイン」という曲のことが記されていた。
 ミッシエル・カミロ(ピアノ)とトマティート(フラメンコギター)による演奏。
 教えてもらわなければ、自分からは出会うことのない曲…すぐにネットで聴いてみる。

https://www.youtube.com/watch?v=WRv3_oih0Xo

 
 その出だしの音を聴いて、かつて同じような響きを耳にしたことがあるように感じた。
 
 暗い広大な洞窟の空間…透明な鉱物のかけらがきらきらと舞い降りてくるような…。
 これはなんだったろうか…そして思い出した。
 
 勤めはじめて間もない頃、同期の仲間と集まった夜、そのなかの一人が大切そうに針を下ろして聞かせてくれたピアノ曲の響きを思い出したのだと分かった。
 そのレコードのタイトルは「ケルン・コンサート」。もちろん、初めて聴く演奏だった。
 その始まりの音の響きといえば…その時の私には忘れることのできない不思議な美しい響きとして刻み込まれた。そして、それから、長い間、「ケルン・コンサート」の出だしの音の響きと、キース・ジャレットという名前は、私の記憶の泥沼のなかに沈んだままとなっていた。
 
 昨夜のミッシエル・カミロという人の演奏が、なぜ、過去に一度だけ聴いた「ケルン・コンサート」につながってしまったのかは分からない。
 ただ、秋の風のなかで、心地よい漣が広がったのだ。
 二人の友人が教えてくれた曲の漣が、昨夜、偶然に出会って、別の漣が広がってゆくような心地よさだった。