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私の第三十四夜をつづります。

銭田川の水鳥たち

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銭田川(11月9日)

初めての久米島だった。
訪ねてみたいところは多く、時間は限られている。
結局、あわただしい観光地巡りより、自分の足で歩き回るほうを選んだ。

地図を頼りに、イーフビーチから西に向かって歩き始める。その途中で銭田川に差し掛かった。寄り道をしよう…水鳥がいるかもしれない…。

橋の上からそっと覗く。
『いたいた…』
キセキレイハマシギだった。

私たちが川面にカメラを向けていると、通りかかった車から降りてきた人が私たちに教えてくれた。
「もう少し上流に行けば、もっといろんな鳥がいるよ」と。

銭田川…風にかしいだ蘆原の間から、空の青を映した流れが海へ向かっている。
美しい川だと思った。

地元の方が教えてくれた通りに、そこには、水鳥たちがのびのびと、それぞれの時間を過ごしていたのだ。彼らは自由だ。
時間がたつのを忘れて、水鳥の動きを追いかけ、眺めた。息を止めて動画を撮っていると、周りで風が鳴っているのが良く分かった。

こんな時間…銭田川の流れのような時間。
私も水鳥たちと同じように自由だったと思う。

 

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オグロシギ(左)とセイタカシギ(右)             セイタカシギ(左)とオグロシギ(右)

 

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        片足立ちのセイタカシギ(左)とオグロシギ(右)

 

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          セイタカシギ(左)とオグロシギ(右)

 

いつも一緒のクロツラヘラサギ
丈夫そうな箆をせわしなく左右に動かしながら(嘴で水を掃くような仕草で)歩く。

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ハマシギ
近寄ろうとすると、敏感に遠くに飛び立つ。

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バンの幼鳥?:
歩く姿を遠くから動画を撮って追いかけた。
すぐに葦のなかに隠れることができるような道筋を歩く。
最後も、何かの気配に驚いたのか、慌てて葦叢の中へと潜り込んでしまった。

久米島:11月の蝶・花など②

 

小雪”を過ぎてからの空気は、冬の扉が開いたのだよと告げている。

その扉から吹き込む冷気のために、吸入薬の出番もこのところ多くなった。
あの久米島の北風なら、私の気管支でも受けとめられたのにと思う。そして、冷気が近づきはじめたのと入れ替わりに、しだいに遠のいてゆく久米島の記憶を、早く写真に閉じ込めて残さなくてはと思う。

(銭田の森の蝉たちは、今も大合唱を続けているのだろうか?
 道案内をする振りをして、からかうように翅をひるがえす蝶たちはまだ元気にしているだろうか?)

 

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      ハイビスカスの街灯飾り

 

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        たくましいバナナの木(銭田川沿いの小道で):
        水鳥に気を取られていて、思わずぶつかりそうになった。

 

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銭田から粟国島(左)と渡名喜島(右)を望む

 

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  銭田から島尻を望む

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  フラを踊るようなタコノキ

 

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         ユウナ(オオハマボウ):
         地面に腹ばい、うつむく顔を覗き込む。

 

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オオシマゼミ:蝶とトンボと蝉は、昆虫類の苦手な私が撮影できる数少ない生き物。
       鳴き声はすさまじいけれど、青みがかった緑色の姿は沖縄の海の色。

 

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ナミエシロチョウ? ウスキシロチョウ

 

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オキナワキョウチクトウモンキアゲハ
白いキャンドル形の蕾の尖った印象は、やわらかなイメージのキョウチクトウ(かつて実家に咲いていた白い花)とは似ていなかった。その葉っぱの形から、”オキナワキョウチクトウ”の名前を探し当てたけれど。





  

 

 

眠りの姿なのか、祈りの姿なのか。

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11月18日の大山

18日、海老名市の龍峰寺・国分寺厚木市金剛寺を訪ねてきた。

とても風の強い一日だったのに、空気はゆるみ、西の空に連なる大山は、ほぼ青一色にかすんで見えた。

思えば、私たち一行がその日に拝観した仏様はいずれも、収蔵庫の闇のなかで過ごされていたのだった。
その日の空に溢れていた光も、激しく騒ぐ風の音も届かない、現世から隔絶された一室に、ずっと、ずっとなのだった。

見上げる空間に浮かび上がる静かな仏様の姿。その姿に魅入られる時間…それはいつものような単調な刻みをもつ時間とは違う。
現世の日々の事象に翻弄され、そのつど、波立ちと濁りを繰り返すだけの心が、仏様の前の時間のなかで、平らかに鎮まってゆくように感じた。

仏様が、今も確かに生きてそこに在ることの不思議。
私たちが、その仏様の前で、己の生命を感じなおすことの不思議。

 

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                 金剛寺の境内で

 

最後にうかがった金剛寺の境内のなかに、周囲とかけ離れた空気が漂う窪みがあった。その”結界”には、ひび割れ、痛々しい修理跡を残す仏様が潜んでいたのだった。
小さな仏様は、すっかり眠りに浸っているようにも見えたし、また、何か一心不乱に祈り続け、かすかにつぶやいているようにも見えた。

 

日常の時空間に戻った今、思う。

現世の目まぐるしい事象のさまざま…入れ替わり立ち代り、心を乱して止まない出来事…それは、私にとって、辺野古の現在であったり、香港の現在であったり、あるいは政権中枢にはびこる病巣の醜悪さであったりする。それらの問題は、いまだ解決や希望へと向かう出口が見つからず、無力感・閉塞感を募らせ続けるものばかりだ。

そうした日常の今、思う。

あの境内の小さな仏様が、私たちと同じように、現世の陽射しのなかに在り、現世の風雨のなかに在ること…。あのように無残にひび割れても、瘤のような修理跡を加えられても、それはそれとして、そのままに在り続けていること…。

 

 

 

 

1945年夏の久米島を想う。

 

 

「…久米島に駐留した日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)が、6月26日の米軍上陸後にスパイ嫌疑で住民20人を殺害した。米兵に拉致された住民を「スパイ」と見なし、目隠しのまま銃剣で刺し、家に火をつけて焼き払うなどした。朝鮮人家族も犠牲になった。…」

「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された  沖縄・久米島での住民虐殺  - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース から抜粋・引用】

 

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しんとした光のなかの久米島の海や浜辺が、ゆらゆらと眼に浮かぶ。
そして、1945年夏の久米島に生きていた人々はどこに行ってしまったのだろう…と思う。

また、沖縄戦の証言記録「久米島に生きて」(元 陸軍二等兵 渡辺憲央さん)や「戦時日記(抄)」(久米島具志川村農業会会長 吉浜智改さん)を読めば、1945年夏の久米島を知る人々が、今なお生きているように私に語りかけてくる。

六月二十三日(旧三十日)

 入山六十三日目 空襲九十三日目
 沖縄の地上戦は将さに風前の燈の如し。
 島民よ頑張れ、たとい如何なることがありても只生き永らえるのだ。

六月二十六日

 米軍上陸 入山六六日目 空襲九六日目
 午前八時 仲里村イーフ浜に米軍無血上陸す。
 島民は皆山へ山へ奥へ奥へと蜘蛛の子を散した如く四散した。」 

https://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/testimony/data/shogen02_11/shogen02_11.pdf より抜粋・引用】

 

「山へ山へ…」
人々が逃げ込んだ山は、あのリュウキュウマツに覆われていた銭田の山々なのだろうか。蝉たちが、青い空に向けて、命の限りとばかりに鳴き尽くしていた、あの山なのだろうか。              

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「無血上陸…」
良かった…あのイーフビーチのまぶしい白砂が人々の血に染まることは無かったのだ。

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私たちが泊まった宿のフロント近くに、小さな写真が飾ってあった。
そこに、宮崎駿氏に良く似た姿が写っていた。
『宮崎さんも泊まったのだろうか?』と思った。

旅のあと、「久米島はこの世の天国に違いありません。」という宮崎駿氏の言葉と、”風の帰る森”についての記事を読んだ。

”天国”…そうかもしれない…久米島の海よ浜よ、”風の帰る森”よ、いつまでも美しくあれ…1945年夏の久米島で日記を綴っていた吉浜智改さんも、きっとそう願っていると思った。

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             久米島で出会ったトトロ

 

久米島:11月の蝶・花など①

 

初めての久米島…どんな島なのだろう…天気予報の変化に一喜一憂しながら、出発の日を待った。

それでも、出かけてみれば、11月の久米島の空は私には申し分のないものだった。
海岸道路を吹き抜ける北風のさわやかさも格別だった。

”イーフビーチ”や”はての浜”の海の色・浜の色は、まさに別世界の色だった。

サトウキビ畑を見渡しながら農道を歩いた。
さまざまな水鳥が暮らす川べりをそっと歩いた。
また、蝶の通り道を伝って、小高い丘にも登った。

短い旅のなかで撮りためた写真を並べ、私の薄れやすい記憶のよすがにする。

 

▼刈り取り前のサトウキビ畑と赤い農地(仲里):
土はボコボコと乾燥している。
背が高く重そうなサトウキビは北風でかしぎ、農道にはみだしている。

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リュウキュウヒメジャノメ:
触覚が触れ合うばかり…互いに何かを探り合っているような?
(ヒトとヒトの場合は、どこらへんをセンサーにしているのだろう?)

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リュウキュウミスジ                               

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▼ミナミキチョウ

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ヤマトシジミ? 

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月桃の実              

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▼アサギマダラ

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▼サツマイモ?の花:愛らしい花なので、花壇のよう。

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ブーゲンビリア

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久米島の浜辺

2018年3月、初めて沖縄を訪ねた。
以来、友人や家族に誘われて沖縄への旅を重ねるなかで、それまで縁遠かった南の国の人々や風土が少しずつ親しいものになってゆく。

一方で、ゆきずりの観光客として沖縄を旅する時間のなかで、疚しさに似た言い表しがたい気持ちが湧きあがることがある。
それは、たとえば、蝶の通り道に風が吹きぬけ、木々の合間からまぶしい光が差し込むなか、思わず『あぁ、なんて幸せな…』と感じる一瞬だったりする。
(多くの犠牲の刻印を残す”沖縄”という地で、生命の充足感に満たされている自分に対するよく分からない感情…それは、一瞬の幸福感の裏側から湧きあがってくる。)
11月の久米島の旅のなかでも、こうした瞬間があった。

きっと美しかった沖縄。きっと優しかった沖縄。
でも、それらが失われた時代があった。多くの犠牲が払われた時代があった。

それでも、今、美しい沖縄は美しい。
それなのに、今、優しい沖縄は優しい。

昔も今もこれからも、ずっとそうでなければいけないのだと思う。

 

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はての浜

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はての浜

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はての浜

 

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イーフビーチ①

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イーフビーチ②

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イーフビーチ③

     

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                久米島の浜辺の一皿

見慣れた空間から未知の世界へ

 

涼しくなって本を手に取る時間がほんの少し増えた。
(といっても、新書判のように、とにかく小さな本を選ぶようになっているのだけれど。)

その1冊目は『武士の起源を解きあかすー混血する古代、創発される中世ー』(桃崎有一郎 ちくま新書1369 2018年)。タイトルが長い…そして個性的だ。

挑発的なその副題…”混血する古代、創発される中世”とは、いったいどういう意味だろう?と思った。
読み始めると、じきに、著者の若々しさ、意気込み、スピード感、知的標的に向かって勢いよくアプローチする姿勢を感じ取った。
このように、語り手の生身の思考回路や視界が、文章空間に垣間見えてくる場合、あるいは、著者の語り口にただならぬもの?を感じ取った時、私は読み続けることができる…ことが多い。で、私は”混血する古代”の思考回路と視界にワクワクできたのだった。

2冊目…『神社の起源と古代朝鮮』(岡谷公二 2013年 平凡社新書704)は読みは始めたばかり。著者とともに、近江の旅から次の旅へと向かっているところだ。その語り口は衒い無く、ゆったりとしている。

限られた、また見慣れた空間を行き来するだけの私が、見知らぬ著者の旅に誘われ、未知の世界へ目を見開くことができる。そう思えるのが嬉しい…今や、本を手に取っている自分に対し、嬉しいのだった…やれやれ…。

 

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    見慣れた空間…人魚姫の公園の噴水(11月3日)