enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

家…時々浜辺。

 

6日、日没に間に合うように、海に向かった。
平塚海岸から”ダイヤモンド富士”を見る久しぶりの機会なのだった。

海に向かう通りの交番の前で、なぜかお巡りさんが直立していた。いつもは見られない光景。明日には出されるはずの「緊急事態宣言」について思い及ぶ(いつか私が、”緊急事態下にもかかわらず、ふらふらと歩き回る市民”となる日が来たりするのだろうか?)

浜辺に着く。
ダイヤモンド富士”があらわれる時間を待つ人…それらしい人の姿は、思ったより少なかった。
しかも、富士山は、西の空のどこにあるのかも判然としない。

日没までの小半時、波打ち際を行き来する。そして、波に洗われては蘇る砂の輝きを眺めた。

太陽が西の空に吸い寄せられてゆく時間は、そのまま、富士のシルエットが西の空に浮き上がってくる時間だった。

東の空の月も、十三夜を越えたふくらみをくっきりと見せるようになった。

時満ちて、太陽は富士の頂上にかかった。
ダイヤモンドというよりは、ルビーのような太陽が、透き通った輪郭を刻々と減じていく。
富士の山頂から一粒のルビーが一瞬で消えてしまう。

その余韻として、薄闇と鎮静の時間が控えている。
夜明けの神聖な太陽が、あっけなく間延びした日常の時間に溶け込んでしまうのに対し、日没のあとは、ひたひたと親和的な気分にみたされてゆくようだった。

 

f:id:vgeruda:20200407221639j:plain4月6日の海

 

f:id:vgeruda:20200407221656j:plain4月6日の富士山に沈む夕日

 

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4月6日の月

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ミレーの『春』との新しい出会い。

 

4日の夕べ、いつものように眺めていたネットのなかに、ヴァイオリンを弾く仁和寺のお坊さんの姿があった。
境内を吹き通る風にひるがえる白い衣、湧き上がる弦の音色。

今、地球上ですでに進んでいるのかもしれない”天人五衰”の相…そうした現実をまだ見通していない私は、天上の楽人の姿にひととき元気づけられた。

明けて5日朝、TV番組のなかでミレーの『春』が採り上げられたことを知った。

ミレーの『春』の絵を後生大事に想い続ける私にとって、書き留めないではいられない特別なできごとだった。

すぐに本棚から『週刊美術館 13  ミレー コロー』小学館 2000年)を取り出した。

『春』の頁を開く。
虹の光を生み出す鉛色の美しい空。光と空気がせめぎあう不思議な空間。そこには、虹が立ち顕れた瞬間の光と空気が織りなすもの、それこそ”動的平衡”の瞬間が、そのまま映し出されているように思える。

また、今回、『春』を眺めなおし、あらためて気がついたこともあった。

虹に近い鉛色の空から、白い鳥が3羽、青みをのぞかせる小さな空をめざして、飛んでゆこうとする姿だった。『これらの白い鳥は…?』と思った。

『春』の下段の解説には「作品には亡くなった友人ルソーへの追悼の思いが込められているともいわれる」とある。

確かに、『春』には、小道の奥の木陰に、『晩鐘』の農民のような静かな姿でたたずむ人が描きこまれている。
また、『春』の風景はすみずみまで細やかに描かれ、ミレーの、というより、テオドール・ルソーの描く風景に入り込んだような細密な空間になっている。

とすれば、今朝初めて気がついた”天がける白い鳥”も、やはり、ミレー自身の祈りの形なのかもしれなかった。

先の見えない巣ごもり暮らしのなかで、こうした音楽や絵画との小さな新しい出会いに、ひととき息をふきかえす瞬間がある。
小さく息をふきかえしながら一日一日を繰り返してゆくのだ…。

 

【過去の”enonaiehon”から、ミレーの『春』を拾い集める】
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2011.12.18 

三十数年ぶりにセガンティーニの絵を観た。20代で出逢ったセガンティーニは、当時、三島由紀夫から伊東静雄へと辿って知り得た画家の名であり、作品だった。長い間、大原美術館を訪ねた際の若い思い入れ、感傷の記憶だけが残っていた。今、60歳で観るセガンティーニ・・・その絵筆の跡、絵の具の輝きは生々しく、初めてセガンティーニという画家その人に出逢った気がした。質素な便箋に書かれたつつましい文面を覗き込みながら、その短命を痛ましくも感じた。小さな印刷画として展示されたアルプス三部作「生」の前で、ジョルジョーネの「テンペスタ」についても思い出した。400年の時差がありながら、二人の画家は、樹木の根元に休む母子像を描いている。空と大地を背景に木陰に安らう新しい聖母子像にも思える。そして、「テンペスタ」の雷鳴の空はミレーの「春」の虹の空へとつながっていく。唐突に、私は思う。時代も風土も文化も異なる彼らの絵の中に、現代の日本に生まれた私は、果たして何を観ようとしているのだろうかと。また、ヨーロッパと同じ400年の時間のなかで、日本に生きた絵師・画人が個人として描くべきものがあったとするなら、それは何だったのかと。

                                 

セガンティ-ニ「生」アルプス三部作 1896-1899f:id:vgeruda:20200405094035j:plain

 

ジョルジョーネ「テンペスタ」1507

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ミレー「春」1868-1873f:id:vgeruda:20200405094053j:plain

 

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2014.4.6

ベランダのクリスマスローズの一つめの花は色褪せ、種をつけた。その大きな葉の下には、小さな白いスミレが隠れるように咲いている。かつて比叡山で見かけたスミレより頼りなげに咲いている。
図書館への道の途中で、似たようなスミレの群れがあった。まわりには小石がごろごろ。けっこう、たくましいのかな、と思う。
図書館で伊豆山近くの大縮尺の地図をコピーさせてもらう。四時半のチャイムが鳴って、外に出る。地面が濡れていた。ちょうど雨上がりだったのだ。
噴水の上の空を見上げると、きれいな鉛色だった。昨日気がついたケヤキの若葉が光っている。西の雲の切れ間からの光で不思議に明るい。虹こそ出ていないけれど、ミレーの『春』に描かれている光線と同じように、非現実的な明るさだった。なんてきれいな光だろう。

アリアケスミレ?

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【追記】

~2020年4月4日、休館中の図書館に本を借りに行って…~

 

コロナ禍による休館中でも、予約していた本を受け取ることができる。
久しぶりの図書館の階段では、踊り場の二手の流れが、昇り・下りに分けられていた。

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図書館近くの大きな桜の樹は、この春、大きな切り株へと変じていた。

知らなかった…。
在ったもの、長年見ていたものが、いつのまにか姿を消していた。

気を取り直し、博物館の裏手の桜の樹を訪ねてみる。
空が隠れる花盛りだ。

来年もまた。

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石畳の小道で、カツラの小さな葉、元気そうな若葉にホッとする。
昨年、無残に刈り込まれ、その葉をあらかた失っていたのだから。
今年の秋の黄葉を楽しみにしているよ。

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巣ごもりのなかでさまよう。

私が巣ごもりしている部屋の壁に、小さなカレンダー(『やむぬはぎーねー うみんはぎーん 山がはげると海もはげる 』)が掛かっている。

そのカレンダーの4月の写真は、春らしい光にあふれていて、見るたびに気持ちが明るくなる。

辺野古の近くの浜辺だろうか。
写真の解説には「浜下りの日。旧暦3月3日、潮の引いたリーフで貝やたこを捕っていた。…」とある。

 

今や、日がな、食卓上のパソコンや新聞を眺め暮らすだけの私にとって、カレンダーというものは、整然とした数字の行列にしか過ぎなくなってしまった。
それでも、その写真を見れば、はるか南の島々、美しい海や空へと心誘われてゆく。

そしてまた、日々の新聞のなかを覗きこめば、紙面よりずっと広々とした空間へと誘い出してくれる文章に出会ったりもする。

今朝の新聞では「福岡伸一 動的平衡 ウイルスという存在」がそうだった。
その小さな文章空間を通り抜けると、今も世界じゅうの人々が必死に忌避している新型コロナウイルスの恐ろし気な顔が、くるりと別の顔をこちらに向けるようになっている。小さくても広がりのある不思議な空間。その空間には、文字たちが行儀よく行列しているだけなのに。

パソコンのなかのさまざまな情報も、私のよどんだ脳味噌をかきまわしてくれる。

昨日読んだ『これで「軽症」と言うのか。新型コロナ感染で入院中、渡辺一誠さんの手記』においても、私の脳味噌は、見知らぬ他者の棲む異空間に入り込み、夢遊病患者のように(他者の夢を味わうように)さまよったのだった。

このところ、読書に一層身が入らなくなった私の脳味噌は、あてどない自分の身体や現実を離れ、ネット空間にさまよい出ることで、かすかに点滅を続けることができている。

 

ベランダの植木鉢で生きるスミレたち

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世界の人々にとって”失われた2020年”に?

 

”2020年”という年が、4月1日現在に至るまで、こうした展開になってゆくとは…。

1月…年始は穏やかな良い天気が続いた。
15日出発の家族とのミャンマー旅行、そして25日からの友人たちとの草津行きに備え、体調に気をつけて過ごした。
新型コロナウィルスはまだ、日々の暮らしに姿をあらわしてはいなかった。
29日夜の上京では、インフルエンザを気にしてマスクをしていた。
31日の映画館でも、しっかりとマスクをした。
ただ、これがインフルエンザを気にしていたのか、それとも新型コロナウィルス感染を意識したのか、よく覚えていない。

そして2月…友人とのメールに、”コロナ”や”マスク”の言葉が混じるようになった。

3月に入って、カレンダーに書き込まれていた予定がしだいに失われていった。

2020年の三か月の時間が過ぎ去った今、私たちは”失われた2020年”を過ごしてゆくのだな、と感じている。
そして閑居する小人は、『これからどうやって過ごすべきなのか?』と、ぼんやりした頭で思いめぐらしている。

この瞬間も、世界で、日本で、ウィルスとの闘い、のっぴきならない闘いに直面している人々がいるのだ。

”失われた2020年”…小人には何ができるだろう?

 

人魚姫の公園に咲く花(3月31日)

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”別世界”の海。

この3週間ほど、”自主隔離”に近い生活が続いていた。

日常の時間がよどんでくる。清らかな空気を胸いっぱいに吸い込みたい。

 

家族から、海の近くで桜が咲き始めていると聞き、それならばと海へ向かった。

海への道の途中、店先に植えられたローズマリーの花と葉に、ざわざわと手を触れる。
とがった強い香り…その香りをかぎたくて、触れないではいられない。

(よどんだ脳味噌はすぐさま覚醒し、『 ローズマリー ……  ♪ スカボローフェア ♪  ……  ♫ she once was a true love of mine ♫  ……  』と、連想の道筋をたどりはじめる。そして、『それにしても、”a true love of mine”とはどんなもの? 日本の言葉や表現で置き換えると何?』と、ふたたび脳味噌はよどんでゆく。)

 

確かに、海岸通りの歩道橋の下に、白くけむるようなサクラの姿があった。近づいて見上げると、止むことのない冷たい風に、やわらかな花びらや蕾を揺らし続けていた。

 

 

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3月24日のサクラ

 

浜辺からは大島、箱根、富士山が望めた。
凶々しさの一かけらも潜んでいなかった。
凶々しい現実とはつながっていない”別世界がそこにあった。

 

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f:id:vgeruda:20200324225611j:plain3月24日の海

 

【海岸への道で】

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巣上のトンビ(松林で):ここでも、日常の暮らしが?

 

赤い縁どりの若葉(石垣の上で):ただ成長するのみ、の姿?

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赤木俊夫さんの言葉。

今朝、朝食前に駅に向かう。『週刊文春』を買うためだ。たぶん、私にとって生まれて初めてのことだと思う。

グラビア頁を開く。

2018年3月7日のノートの写真だった。
赤木俊夫さんが、自ら人生を閉じる前に、他者に向けて訴えた言葉がそこに在った。
まさに”魂の叫び”だったのだと思う。
命をふりしぼるような言葉だったと思う。

「 手がふるえる. 怖い 

  命 大切な命 終止府(マゝ) 

そして2017年7月の手帳の写真。
7月7日小暑の欄には「 初蝉 」とある。
また欄外には「 7/19 梅雨開け 」と書き込まれ、大きく四角枠で囲まれている。
20日の欄には「(病気休暇)」、21日と22日の欄にかけても「(病気休暇)」の文字。
しかし、本文記事(相沢冬樹氏執筆)によれば、赤木さんは「結局、そのまま職場に戻ることはなかった。」

 

今日の参議院財務金融員会で、麻生財務大臣は、「近畿財務局の職員が」「自殺をされるということになった」「言葉も無く」と、原稿を読みあげる。
また、安倍総理大臣は、「真面目に職務に精励していた方が」「自ら命を絶たれ」「痛ましい出来事」「本当に胸が痛みます」「改ざんは二度とあってはならず」と取材に応じる。
両者とも、赤木俊夫さんの名を口にすることはなかった。
その淡々と”他人事”のように繰り出される言葉・・・そこには何もなかった。

浮かばれない。そう思った。
何も解決されていない。怒りとともにそう思った。

『赤木さん。私も自分の2017年の手帳を開いてみました。あなたと同じように、7月19日の欄に「梅雨明け」と書いていました。』

『赤木さん。私は2018年3月、16日と30日に国会前の集会に参加していました。27日の欄には「(佐川氏.証人喚問)」と記入しています。』

『赤木さん。あなたと同じ時代に生きていたことを確かめつつ、2020年3月18日の今からは、提訴の行方を見守ってゆこうと思っています。』

 

【過去の『enonaiehon』の記事から】
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2017-03-04  苛立つ。

数年前から、国会のネット中継を視聴することが多くなった。
このところ頻繁に質問を受けている財務省理財局長の答弁。
その一から十まで、納得がゆかない。
理財局長の答弁を構成している”土台”が理不尽であるがために、説得力を持ちようがないのだと思う。
理財局長はほとんど同じ答弁をすらすらと繰り返す。それだけに終始する。
質問者が聞きたいことの核心について、決して答えまいとする意思だけが、はっきりと伝わってくる。
理財局長の”誠意”が、国会中継を視聴している私たちのほうに向けられていないことだけは、はっきり分かる。
私たちのための答弁でないことだけは、はっきり分かる。
ネット画面上の理財局長の答弁に苛立つ。

*その後、彼の肩書きを修正した。いまだ、答弁するにあたっての彼のスタンスは変わっていない。

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2018-02-11  ”赤い靴”

10日に届いた朝刊・夕刊の一面 TOP には、それぞれ「森友交渉 新文書20件」・「黒田日銀総裁 続投へ」のタイトルが踊っていた。朝夕の紙面の背後には、ずぶずぶと引き込まれてゆく泥沼が広がっているように思えた。

そして、それらの記事とはかけ離れたこと…アンデルセンの童話『赤い靴』のことを思い出した。記事から漂う気配には、子どもの頃、初めて『赤い靴』を読んだ時に感じた”空恐ろしさ”と似たようなものがあったからだと思う。

前理財局長(現国税庁長官)も、現日銀総裁も現首相も、それぞれの”赤い靴”をはいているように見える。
そして、「長い白いころもを着た天使」は、彼らに「おどれるだけおどるのだ! おまえのすきなように。もっと、もっと、おどっていけ!」と言っているように見える。
彼らの振る舞いが、”赤い靴”に魅せられた少女カーレンの振る舞いに重なってくる。
 
「それでもまだカーレンは、おどりつづけました。いや、おどらずにはいられませんでした。」

それでも…いつか彼らにも”赤い靴”を脱ぐ時が訪れる。
その時、ずぶずぶとした泥沼から、どのような”異次元”の兆候が浮かびあがってくるのだろう。それはやはり”空恐ろしい”ものなのではないだろうか。 

f:id:vgeruda:20200322111502j:plain「赤い靴」の少女と天使(『アンデルセン童話集 絵のない絵本』 昭和28年 創元社 
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出歩かない間に。

 

家や街で。

出歩かない間に、図書館が休館になっていたりする。
出歩かない間に、在ったはずの家が消えていたり、松林の並びに自動販売機がピカピカと埋め込まれていたりする。

気がついていたことは、ベランダに射しこむ光が明るくなったこと、白いふわふわの蕾を隠していたクリスマスローズが、一番大きな蕾から花開き、そして雄蕊を散らしはじめたこと。

 

平塚の海辺で。

出歩かない間に、錆でボロボロに欠けていた歩道橋の補修工事が始まっていたりする。
出歩かない間に、控えめなハマダイコンが砂浜を彩っていたりする。

知っていたことは、富士山が真っ白なこと。
想像していたことは、海辺を楽しむ人たちの顔にマスクが無いこと。

 

そして、海が海であること。波が波であること。風が風であること。
そんなことを確かめ、励まされた3月13日。

 

f:id:vgeruda:20200313114139j:plain3月13日の富士山

 

f:id:vgeruda:20200313114733j:plain大きなカイト

 

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ハマダイコン

 

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カタバミたち

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