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私の第三十四夜をつづります。

2020年秋:八幡平④

f:id:vgeruda:20201130222529j:plain廃墟の先の水辺(位置としては、おそらく「影沼」の北端あたり?)

 

 

2020年最後の秋。

一年には365日が詰まっているけれど、そのうち、「秋」と感じ取るのは何日分くらいなのだろう。
毎年、毎年、「秋」はやって来て、過ぎていく。
結構、それは短い日々。


また、すでに70年近くを経た私の人生の「秋」はいつだったのだろう、とも思う。
今が「秋」なのだ…と日々確かめることもなく、いつのまにか終わっていたのだった。それは、季節の「秋」より、ずっとずっと短かったかもしれない。

 

2020年…いつものように秋はやって来たし、いつものように過ぎてゆこうとしている。

11月の最後の日に、撮りためた八幡平の秋景色を、夢と同じように遠く眺め返す。
確かにあったけれど、もうどこにもない。季節は、いつもそうだ。

私の人生の「秋」も確かにあったはずなのだけれど、もうどこにもない。
「冬」がこれからやって来る? それとも、もう来ている?

 

 

【八幡平の高原で:10月16日の写真から】

 

f:id:vgeruda:20201130221134j:plain朝の林の中で

 

f:id:vgeruda:20201130221155j:plain紅葉・黄葉に埋もれるシュールな冷却塔(松川地熱発電所):
この「松川地熱発電所」の名を知ったのは1970年代半ば頃。
2011年3月という境界点を越えてしまった今、その意外な姿と美しい立地環境に不思議な感情が湧いた。

 

f:id:vgeruda:20201130221219j:plain地熱発電所から見る紅葉・黄葉(「小畚 (こもっこ山」?方面)

 

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 紅葉する花(「影沼」の北端あたりで迷い込んだ廃墟の庭で)

 

f:id:vgeruda:20201130222611j:plain芭蕉沼」:
松川左岸には沼が点在する。地図を頼りに「五葉沼」や「湯坂沼」などを巡った。
この「芭蕉沼」も、ひっそりとしながらも”健在”だった。

 

f:id:vgeruda:20201130222637j:plain芭蕉沼」に映る林

 

f:id:vgeruda:20201130222659j:plain松川渓谷の柱状節理(松川玄武岩):
16日は、こうして、地熱発電所のある松川温泉から、沼巡りをしながら歩き続けた。松川の流れがはっきりと姿を現し、しかも蛇行している地点には「柱状節理」まで展開していた。あぁ、旅が終わってゆく。

 

「あぁ、旅が終わってゆく」…いや、旅の本当の最終日(17日)には、欲張って、横浜の博物館に立ち寄っていたのだった。
パンパンのリュックを館のロッカーに突っ込み、旅の疲れと興奮の残るよれよれした身体と脳味噌で、むりやり拝した仏様たち。
本来ならば、別の日に改めて出向き、静かな心持ちで向かい合いたかったのだけれど…。

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特別展「相模川流域のみほとけ」のチケット(神奈川県立歴史博物館):
今回、初めて拝した平塚市・宝積院薬師堂の薬師如来立像の存在感に動揺した。
チケットにもお出ましの宝積院の薬師如来像は、旅の帰路の途中(ついでに?)、「65歳以上 200円」で拝した私を、少し冷めた視線で見ていらっしゃるような…。

2020年秋:八幡平③

f:id:vgeruda:20201125211915j:plain落葉の色採り

 

 

11月25日…夕方になってから街に出る。
イチョウ並木の落葉が、歩道際に黄金色の吹き溜まりをつくっている。

25日?…そうか…三島由紀夫のことをすっかり忘れていた自分に驚く。
そして、怖いほどに薄れゆくものは、三島由紀夫についての記憶に限らないのだった。


この頃では、”かつてあったはずの自分という存在の形”…私が唯一、最も良く見知っていたはずの存在の形が、フワフワとしたもの、ぼんやりしたものになってきている。
コロナ禍のなか、明らかに老衰しつつある心身。そして、日々、希薄になってゆく”自分という存在の形”。

アイデンティティなるものを意識化し維持するための刺激も、それを求めようとする気力も見失い、半覚半睡・幽体離脱の態で、白濁した時間だけが沈殿してゆくようなのだ。

それでも、非日常の旅へと抜け出せば、いっとき、私が私であったことを思い出すような時間…かつてあった自分の形をなぞって確かめる機会に出会ったりすることもあるのだ。

今、旅から日常に戻り、秋の八幡平の写真を眺めていると、現時点の現実との乖離に、疼きに似たものを感じる。

2020年秋…コロナ感染者数の増加が国会論戦の焦点になっている今、極めて内向きな旅の時空間で味わった束の間の生命感の感触について、名残り惜しくも、また疚しくも思い起こしている。

(自分が自分でありたいと志向すること…それだけにかまけること…はどこまで許されるのだろうか?)

 

 

【八幡平の高原で:10月15日の写真から】

 

 

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ツタウルシの黄葉(紅葉?)        くす玉のようなツメクサの花

 

 

 

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今は盛り…キャラメル色のカツラ      やがてすがれてゆく緋色

 

f:id:vgeruda:20201125211653j:plain 秋の「七滝」

 

 

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小さなキノコたち             歌う樹?

 

 

f:id:vgeruda:20201125211736j:plain ウメバチソウ

 

f:id:vgeruda:20201125211749j:plain モンキチョウ

 

 

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            ~「森の大橋」から望む~               

 

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漣のような木肌と紅葉           蝋燭の炎のような…       

 

f:id:vgeruda:20201125211840j:plain変身したコバイケイソウ

2020年の秋:八幡平②

 

f:id:vgeruda:20201117211540j:plain黒谷地(くろやち)湿原 (八幡平 11月14日)

 

 

コロナ感染拡大の不安を感じつつ、旅に出ることの心疚しさ。
さらに自身の体調不安も残っていた。

それでも、旅の誘惑に逆らいきれなかった。
それほどに、11月の空気の肌触りは格別だ。

長い夏の記憶が遠のき、ようやく充ち足りた季節にたどり着く…肌に記憶されている懐かしい感触が呼び覚まされる。

それは、旅空のもと、突然、湧き上がってくる気持ちにも似ている。
縮こまった心が、思い切り自由な呼吸を得て解き放たれ、はるか空の彼方へと羽ばたく。私が消えてゆく。何と心地よいのだろう…。

 

旅先の八幡平では、眼の前に黒谷地(くろやち)湿原が広がった時もそうだった。


うまく言葉にできないけれど、心の中には、生まれた時から”帰ってゆきたい場所”というものが用意されていて、私はきっと、その場所に出会うため、現実の世界を生きているに違いない…そんなふうに感じてしまうのだ。

その場所は、探すわけでもなく、突然、風景の形をとって眼の前に出現する。
なぜ、そこに帰ってゆきたいのか、説明ができないけれど、出会えば分かる。
わけもなく懐かしい…何ものにも束縛されない…こんなにも自由…そういう場所なのだ。

 

 

【八幡平の高原で:10月14日の写真から】

 

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アオゲラの後ろ姿(14日朝。県民の森で)

 

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ヤマハハコ(?)             ニッコウキスゲ  

 

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(貴方の名前は?)            マイヅルソウ

 

 

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チングルマ                エゾオヤマリンドウ

 

 

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シラタマノキ               オオカメノキ

 

 

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イワカガミ                ツルリンドウ

 

 

 

f:id:vgeruda:20201117211821j:plain光泡立つ沼

 

 

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ハンゴンソウ               オオシラビソ(アオモリトドマツ)

 

 

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八幡平の”亡者”              枯れ木と黄葉のドレス

 

 

f:id:vgeruda:20201118135012j:plain アザミ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 











 

 

 

 

2020年の秋:八幡平①

 

 

コロナ禍のなか、二度目の旅。
家族との旅が続く。

私は力持ちで、荷物持ちとしてかなり役に立つ。
なので、旅の道連れとしてできるだけ体調を整えなくては、と思う気持ちが有り余るのか、出発日まで、自信の無い体調への不安が続くことになる。


八幡平へと出かける前夜、炒めたピーマンを口にした途端、突然の吐き気に襲われた。
(卵アレルギーの私が、卵の成分を含んだ食べ物を口にした途端に広がってゆく、あの得も言われぬ不愉快な刺激…ホースの水で、身体の内側の全粘膜を勢いよく洗い流したいような不愉快さ…。これはまさかの悪夢に違いなかった。私の食事に卵成分が入る可能性は無かったから。)

しかし、おさまらない吐き気の先の嘔吐・下痢。その間に心悸亢進と発汗が加わり、足まで萎えて立ち上がれない。もう明日の旅は無理…と、やっとの思いで置き薬を飲み、ぐったりとベッドにもぐり込んだ。『何がいけなかったのだろう…』と悔やみながら。

しかし、身体から”何か悪いもの”がすべて排出されたのだろうか、翌朝、起きた時の気分は、まずまずのものだった。まさに憑物が落ちたように。

それでも、まだ食べ物を口にする勇気は無い。
足先もフワフワと心もとない。
おなかに力を入れ、大荷物を担いで朝の街に出る。そろりそろりと駅へと向かう。
今、旅に出かけようとしている…夢のようだ…。 

そして、旅先には、2020年の絵巻のような秋が待っていたのだった。

 

【八幡平の高原で:10月13日の写真から】

f:id:vgeruda:20201111212135j:plainゲンノショウコ?:種を飛ばすための、フランス王家の紋章を逆さにしたような独特な形が眼を引く。

 

f:id:vgeruda:20201111212209j:plain森の中で出会ったのは”火消しのリス”

 

f:id:vgeruda:20201111212327j:plain黄色の落ち葉:木の葉は、秋にはそれぞれ自分だけの色を得て、終わってゆく。

 

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プラチナブロンドの髪:風のいたずらで、この場所に。

 

コロナの大波に…。

 

引いてはまた返す波。
ふだん通りの浜辺では、引き波のあとに返ってくるのは、さっきと同じほどの波。

ただ、コロナ感染の場合、引き波のあとには、先の波より大きくなって返ってくることもある。

およそ3月以来、新聞紙面上の一覧表で、日本と世界の新型コロナ感染者数の推移を毎日眺めてきた(その切り抜きが溜まる一方だ)。
なかでも、感染者数最大の国、アメリカでの増減は気になった。

9月の時点では、日々、3~4万人増で落ち着いてきていた。
報道番組では、ニューヨーク州知事クオモ氏に似たくぐもった響きのバイデン氏の声が流れるようになった。アメリカのコロナの波が一旦鎮まったのだろうと感じていた。

しかし、大統領候補の討論会が始まる頃から、感染者数はしだいに増加していく。
10月には日々5~6万の増加が続いた。潮目が変わって再び増加に転じた…と思った。
そして11月に入るや8万、9万、10万、12万と、これまでよりずっと大きな波が押し寄せてくるようになってしまった。

今、アメリカのコロナによる死者数は24万人弱…ちなみに平塚市の人口は26万人弱…だ(アメリカでは今なお毎日1000人ほどの患者さんが亡くなられているのだった)。

目下…というより、今後も当分…、報道においては大統領選の結果にばかり気を取られることになりそうだけれど、アメリカでも日本でも、またヨーロッパでも、コロナはその感染の動きをとめていない。

来たるべき日本のコロナの大波に…「令和」の世において推奨されるのは、まず「自助」による努力だ!…と覚悟する今日この頃。

 

 

f:id:vgeruda:20201107190105j:plain箱根山の夕焼け(11月5日)

 

f:id:vgeruda:20201107190057j:plain東西に大きく連なる雲(11月6日)

 

f:id:vgeruda:20201107190116j:plain夕方の富士(11月6日)

ブルーンムーンへの願いごと。

f:id:vgeruda:20201102130456j:plain2020年10月31日のブルームーン

 

 

2020年10月31日の満月は、”ブルームーン”と呼ばれるものだと初めて知った。しかも、願いごとが叶う特別な満月でもあるらしかった。

 

10月半ばに八幡平で夜空を見上げていた時、頭上を星がサッと流れていった。北から南へ、暗い空に光跡をひいて、あっという間に消え去った。流れ星に願いごとを託すというのは至難の業だと思った。

しかし、満月はのんびりと夜空を渡ってゆく。静かに輝く満月に向けて、思いつく願いごとをいくつも届けることができるのだった。

 

その願いごとの一つが叶ったようだ。
11月1日夜の開票速報で、大阪「市」の存続が決まったことを知った。


その確かな一報が流れるのを待つ間、東京の友人とメールのやりとりをした。友人は大阪で生まれ大阪で学んだ人だった。「大阪市、おめでとう!」と送りながら、一つの気がかりが消えたことを実感した。

報道番組の画面から、大阪市長の敗戦の弁が聞こえてくる。
彼はその饒舌な言葉のなかで、「これだけの大きな闘い…問題提起をできたことは政治家冥利につきます」と語っていた。

”冥利”の言葉に引っかかった。

広辞苑』では「①善行の報いとした利益。②神仏が知らず知らずのうちに与える恩恵。③誓いの詞。」などと説明される「冥利」という言葉。

前回と今回との投票で、「賛成」か「反対」かという選択を迫られた人々。人々の間に対立と分断を生じるような問題を二度にわたって提起したことを、「政治家冥利」という言葉で、個人的な満足感・達成感として肯定するのは、あまりに勝手と勘違いが過ぎないか? そう思った。 

 

しかし、とにもかくにも、大阪「市」の歴史が続くことが決まったのだ。
そして、願いごとはまだまだたくさん残っている。
(お月様、どうぞよろしく…また、次のブルームーンの2023年8月31日夜もどうぞよろしく!)

世を欺く人を一晩で紫色に染め上げよ。

f:id:vgeruda:20201030103800j:plain近づく月と火星(10月29日 17:24)
この夜のTVでは、日本学術会議の任命問題を取り上げた番組が流れた。
2020年10月…この任命問題の報道に接してきたなかで初めて、報道姿勢の鮮明さ、注意深さというものを感じ取った番組だった。
インタビューを受ける人間の生身の身体から発信される情報は”誤魔化し”が効かない。
顔つき・表情・目の動き、全体の物腰、声のトーン・話す速度・言い回し・言葉の選び方…。
受け手の私たちは、それらから得た情報を自分なりにほぼ正確に分析する。

一方、この番組が流れた時間、夜空では、月と火星がそれぞれの道筋を迷わず進んでいたに違いなかった。

願わくば、これらの天体からの光が、世を欺く権力者たちと彼らに与する人々の頭と体を一晩で紫色に染め上げよ…と妄想した。
そうであれば、10月30日の朝、世の人々は世界の有様が一変していることに驚愕するのだ…あぁ、かの人も、かの人も、その頭と体は紫色…と。

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29日の夕方、買い物に行こうと表に出ると、ヒヨドリの声が響いていた。

西に延びる電線上で、大きく嘴を開き、啼き続ける鳥のシルエットが眼に入った。
カメラを取りに部屋に戻り、再び電線上を見上げる。残念なことに、ヒヨドリはすでに啼くのをやめていた。

もしかすると、夏の間、ベランダの前の樹陰で子育てしていたヒヨドリかもしれなかった。そっと近づきカメラを向ける。2~3度、シャッターを切った。ヒヨドリはじきにくるりと向きを変えて東へと飛び去った。

そのカメラを持ったまま駅に向かう。まだ明るい。
人魚姫の公園に寄ってみると、秋の薔薇が余力をふり絞るように咲いている。健気な一輪の薔薇の姿をファインダで切り取る。

買い物を終え、再び人魚姫の公園の前に戻る。すでに薔薇たちは薄闇色に沈んでしまっていた。

その代わりに、南東の空には十三夜に近い月が明るく浮かび上がっている。その東隣には赤い星。月と火星が今、間近に出逢おうとしているのだった。

夜空に向けて、二つの星の配置を切り取ろうとするけれど、思ったように撮れない。

気がつけば、カメラを下げている同じ肩に掛けたバッグから、3本束ねた長ネギが大きくはみ出していた。

はみ出した長ネギが、私と宇宙の運行との果てしない落差を物語るようだった。どうにも居心地悪そうな長ネギの姿は私そのもの。

道の真ん中で、カメラレンズにキャップをかぶせながら思う。
いつか、月のそばを行き来する星屑になれたなら、この地球上の、私と同じように居心地悪そうな人々を、眼下に懐かしく見つめ返したりするのだろうかと。

 

 

f:id:vgeruda:20201030103706j:plain電線上のヒヨドリ

 

f:id:vgeruda:20201030103722j:plain10月29日の薔薇(人魚姫の公園で)