1024年、相模は走湯権現に参詣し、百首を奉納したとされている。そして40年後の1063年、静範という興福寺の僧が伊豆に配流となったとされている。そして、その父・兼房が流刑地で暮らす子・静範を思う歌を大弐三位に届けている。その頃、相模がもし存命であれば70代となっているかもしれない。
また、静範の配流先が確かに伊豆であったのなら、社会的生命を絶たれた興福寺僧の受け入れ先の一つとして、走湯権現を想定することは、あながち突飛なことでもないように思う。静範が1066年、罪を赦されたことからも、流刑先での3年間は、言わば”謹慎期間”程度のものであったのかもしれない。そして、静範はその後、都に戻ったらしい。それは、『多武峰往生院千世君歌合』という地味な雰囲気の歌合に、「静範」という名の僧が出詠しているからだ。
自分の読解力を顧みず、その静範の歌や、紀伊入道という判者の判詞(判歌)を読んでみた。案の定、私には左右の歌のどちらが勝ちなのかも読み取れなかったのだが、その歌合と、私の心もとない理解は次のようなものだ。
「 一番 涼風入簾
左 仁昭
わぎもこが あたりのこすは まかねども まどほしにふく かぜぞすずしき
右 静範
あきかぜの みすのまどほに ふきくれば てなれしあふぎ ゆくへしられず
わぎもこに あふきのかぜをくらぶれど さだかにみえず こすのまどほし 」
私の理解は、
左 仁昭
(我妹子が あたりの小簾は 巻かねども 間遠しに吹く 風ぞ涼しき)
右 静範
(秋風の 御簾の間遠に 吹き来れば 手馴れし扇 行方知られず)
(我妹子に扇の風を比ぶれど定かに見えず小簾の間遠し)
となる。そして、左・右の勝負については(右が勝)と判断した。
【補記:2016年時点でこの記事を読み返し、”一番左勝”という通例ではなく、”一番右勝”との理解でよいのだろうか、と感じた。藤原義忠も「東宮学士義忠歌合」において判歌で判じ、また「弘徽殿女御歌合」でも”一番右勝”と判じているので、そうした例の一つとも考えられるのだけれど。】