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私の第三十四夜をつづります。

相模集-由無言8 「権現の御かへり」(2)静範

 1024年、相模は走湯権現に参詣し、百首を奉納したとされている。そして40年後の1063年、静範という興福寺の僧が伊豆に配流となったとされている。そして、その父・兼房が流刑地で暮らす子・静範を思う歌を大弐三位に届けている。その頃、相模がもし存命であれば70代となっているかもしれない。
 このように、相模が崇敬していた走湯権現を擁する伊豆は、一方で流刑地でもあった。しかし、伊豆という地は、この時代、比較的に穏やかな追放先として位置づけられていたのではないだろうか。
 また、静範の配流先が確かに伊豆であったのなら、社会的生命を絶たれた興福寺僧の受け入れ先の一つとして、走湯権現を想定することは、あながち突飛なことでもないように思う。静範が1066年、罪を赦されたことからも、流刑先での3年間は、言わば”謹慎期間”程度のものであったのかもしれない。そして、静範はその後、都に戻ったらしい。それは、『多武峰往生院千世君歌合』という地味な雰囲気の歌合に、「静範」という名の僧が出詠しているからだ。
 自分の読解力を顧みず、その静範の歌や、紀伊入道という判者の判詞(判歌)を読んでみた。案の定、私には左右の歌のどちらが勝ちなのかも読み取れなかったのだが、その歌合と、私の心もとない理解は次のようなものだ。
 
「 一番  涼風入簾
   左        仁昭
  わぎもこが あたりのこすは まかねども まどほしにふく かぜぞすずしき
   右        静範
  あきかぜの みすのまどほに ふきくれば てなれしあふぎ ゆくへしられず
     わぎもこに あふきのかぜをくらぶれど さだかにみえず こすのまどほし 」 
 
私の理解は、
   左        仁昭
  (我妹子が あたりの小簾は 巻かねども 間遠しに吹く 風ぞ涼しき)
   右        静範
  (秋風の 御簾の間遠に 吹き来れば 手馴れし扇 行方知られず) 
      (我妹子に扇の風を比ぶれど定かに見えず小簾の間遠し) 
となる。そして、左・右の勝負については(右が勝)と判断した。
【補記:2016年時点でこの記事を読み返し、”一番左勝”という通例ではなく、”一番右勝”との理解でよいのだろうか、と感じた。藤原義忠も「東宮学士義忠歌合」において判歌で判じ、また「弘徽殿女御歌合」でも”一番右勝”と判じているので、そうした例の一つとも考えられるのだけれど。】
 
 この歌合を知って、私は静範の歌の「あきかぜの」と「てなれしあふぎ ゆくへしられず」のフレーズに興味を持った。それは『相模集』走湯権現奉納百首の「早秋 256 てもたゆく ならすあふぎのをきどころ わするばかりに あきかぜのふく」の歌を下敷きにしているように感じたからだ。 あくまでも妄想なのだが、静範はこの歌合の時期に(1070年頃から1082年頃までの間とされている)、相模集の「早秋」の歌を知っていたのかもしれない、と感じたのだ。そして、それは静範がやはり伊豆に流され、走湯権現を知っていたこととも係っているのではないか、とも感じた。すべてが仮定の上の仮定に過ぎないのだけれど。