17日、海老名市望地遺跡の現地説明会に出かけた。
調査で忙しいさなかの現場で開かれる説明会は、とても貴重な機会だ。
久しぶりの古代道路の現場を楽しみに、海老名駅から現場に向かう。
目久尻川を渡り、坂(大山道南坂だろうか?)の途中にある現場に着く。近くまで住宅が迫っていた。丘陵面の遺跡からは大山の青い山並みがくっきり見える。
畏れ多くも、遺構の「道2」の硬化面の上に立ちながら、調査担当者の方から説明を聞く。
現場の西側で連なる3本の東西道路(北から道路3、道路2、道路1)が、現場の東側で「道路3」は北東へ、「道路1」と「道路2」は東へと、分かれているとのことだった。
また、「道路3」の下から出た平瓦片は、国分寺創建期のものとのことだった。
一番、印象に残ったのは、切り通しを造ってから道路を通したという、その造成方法だった。
また、不思議に感じたのは、幅の狭い「道路1」(約1.5m)と「道路2」(約2m)には側溝が伴うのに、より広い「道路3」(約4~5m)には側溝が見られないということだった。
*切り通しなので、道幅が狭いのか?
*切り通しの坂道なので、雨の流路にならないよう、狭い道でも側溝が必要なのか?
*とすれば、広い道にも側溝は必要では? 時代による工法の違いなのだろうか?
説明を2回うかがって、無知でトンチンカンな質問をしたあと(後悔先に立たず…)、遺構年代の手掛かりとなる遺物を見て、現場をあとにした。
帰り道は国分寺跡を抜けて、移築した温古館に立ち寄った。
場所が代わっても、温古館の内部の雰囲気は変わっていないので、不思議な気持ちになった。係の方からいろいろな情報や資料をいただいた。
夜になって、望地遺跡の古代道路の性格をどうとらえるべきなのか、あれこれと調べてみた。
『神奈川の古代道』(藤沢市教委 1997)には、「浜田駅想定地付近の地名と厚木街道(矢倉沢往還)」(原図:木下良)が掲載されている。まさに、この図の通り、「道路3」が向かう北東方向は矢倉沢往還(厚木街道)と重なり、西は延喜式駅路の「浜田駅」想定地の方向に向かうように見える。
さらに社家宇治山遺跡で検出された古代道路(南南西⇔北北東、2.5m~補修後5m、8~10c)につながる可能性も出てくるようだ。(2006年11月、社家宇治山遺跡の道路遺構の発表を聞いたことが、今回、線となって望地遺跡につながりそうなことが嬉しい。)
一方、「道路1」と「道路2」について、また「道路3」が側溝を持たないことについて、さらに国分寺創建瓦が「道路3」の造成・補修のどの段階で(2次的利用として?)使われたものなのか、などの疑問は残ったままだ。
海老名市望地遺跡の現地説明会(2014.5.17)