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私の第三十四夜をつづります。

側溝を持つ古代道、持たない古代道

 17日、海老名市望地遺跡の現地説明会に出かけた。
 調査で忙しいさなかの現場で開かれる説明会は、とても貴重な機会だ。
 久しぶりの古代道路の現場を楽しみに、海老名駅から現場に向かう。
 目久尻川を渡り、坂(大山道南坂だろうか?)の途中にある現場に着く。近くまで住宅が迫っていた。丘陵面の遺跡からは大山の青い山並みがくっきり見える。
 畏れ多くも、遺構の「道2」の硬化面の上に立ちながら、調査担当者の方から説明を聞く。
 現場の西側で連なる3本の東西道路(北から道路3、道路2、道路1)が、現場の東側で「道路3」は北東へ、「道路1」と「道路2」は東へと、分かれているとのことだった。
 また、「道路3」の下から出た平瓦片は、国分寺創建期のものとのことだった。
 一番、印象に残ったのは、切り通しを造ってから道路を通したという、その造成方法だった。
 これまで、相模国武蔵国上野国などの東海道東山道の道路遺構を見たけれど、こうした丘陵を切り通して造った坂道の古代道を見るのは初めてだった。
 また、不思議に感じたのは、幅の狭い「道路1」(約1.5m)と「道路2」(約2m)には側溝が伴うのに、より広い「道路3」(約4~5m)には側溝が見られないということだった。
 *切り通しなので、道幅が狭いのか?
 *切り通しの坂道なので、雨の流路にならないよう、狭い道でも側溝が必要なのか?
 *とすれば、広い道にも側溝は必要では? 時代による工法の違いなのだろうか?
 説明を2回うかがって、無知でトンチンカンな質問をしたあと(後悔先に立たず…)、遺構年代の手掛かりとなる遺物を見て、現場をあとにした。
 帰り道は国分寺跡を抜けて、移築した温古館に立ち寄った。
 場所が代わっても、温古館の内部の雰囲気は変わっていないので、不思議な気持ちになった。係の方からいろいろな情報や資料をいただいた。
 夜になって、望地遺跡の古代道路の性格をどうとらえるべきなのか、あれこれと調べてみた。
  『神奈川の古代道』(藤沢市教委 1997)には、「浜田駅想定地付近の地名と厚木街道(矢倉沢往還)」(原図:木下良)が掲載されている。まさに、この図の通り、「道路3」が向かう北東方向は矢倉沢往還厚木街道)と重なり、西は延喜式駅路の「浜田駅」想定地の方向に向かうように見える。
 さらに社家宇治山遺跡で検出された古代道路(南南西⇔北北東、2.5m~補修後5m、8~10c)につながる可能性も出てくるようだ。(2006年11月、社家宇治山遺跡の道路遺構の発表を聞いたことが、今回、線となって望地遺跡につながりそうなことが嬉しい。)
 また、その推定が正しければ、「道路3」の延長の相模川の渡河地点は、高座郡側は社家付近、大住郡側は岡田付近ということになりそうでもある。
 一方、「道路1」と「道路2」について、また「道路3」が側溝を持たないことについて、さらに国分寺創建瓦が「道路3」の造成・補修のどの段階で(2次的利用として?)使われたものなのか、などの疑問は残ったままだ。
 
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   海老名市望地遺跡の現地説明会(2014.5.17)