7日、能を観るために鎌倉に出かけた。
友人に誘われて、そして秋の鎌倉に誘われて、早起きした。今の私には、夜よりも朝早くのほうがありがたい。
長谷の街は店もまだ閉まっていて人通りもほとんどない。
能舞台はさらに静かな坂道の途中にあった。
久しぶりに目にした能の舞台空間は、芝居小屋のように親しみやすいものだった。
『柑子』が始まる。聴くうちに、自分のおなかにも自然と力が入ってしまう。小さな舞台空間だからなのか、生身の肉体が発するエネルギーをじかに浴びるような気がする。
『龍田』も、なぜか今まで経験した能楽の空間とは別のものだった。声も音楽も若々しくエネルギッシュだ。聴きながら、ギリシャ悲劇のコロスの響きとはこのようなものなのだろうか、と思う。はるか遠く、1970年代に岩波ホールで経験した『トロイアの女』や『バッコスの信女』の強烈な舞台空間を思い出す。
『龍田』は、詞と音楽、二つの面と衣装、白い爪先だけを追い続けた。
帰り道で、数十年ぶりに長谷寺に立ち寄ってみる。
境内は小学生や観光客で賑わっていた。
嵐のあとの秋明菊が萩のように枝垂れているのも秋らしい。
やや翳った空の下に、海が広がる。静かな海面だった。