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私の第三十四夜をつづります。

霧降の滝の不動尊像(2)

尾根道で木々の軽やかな緑を見上げていると、昼を知らせる街のチャイムが風に乗って聞こえてきた。“山王社”の下で中食をとり、分岐点の“カマトギバ”(平塚市博物館HPによる)から、宮下川を渡る道へと下った。途中、道下に大きな口を開く蟻地獄のような防空壕跡も以前のままだった。落ちたら戻ってこれそうもない。異次元へと誘い込まれそうな穴だ。
 階段ごとのタチツボスミレたちを踏まないようにして下る。じきに宮下川の小さな流れを踏み越えた。沢沿いに続く道はいつものように静かだった。山側の斜面にタチツボスミレたちが細い首筋を伸ばしている。
霧降の滝にさしかかった。急に、この滝にあるはずの「不動尊石像」のことを思い出した。何度も滝を訪れながら、その場所が分からないままだった。せり出した大岩を流れ落ちる滝の向こう側に隠れているのではないか。そう思って、滝の下の流れに降りてみる。さらに奥へと流れを渡ることができそうだった。滝の裏側が見えてきた。やはり滝の裏にはまた別の空間があったのだ。その暗い岩肌のやや上方に不動明王像の姿が確かに浮かび上がっている。こんなところに…と思う。
思えば、20134月に「霧降瀑碑」を撮影し、碑文のなかに「不動尊石像焉祭」とあるのを確かめてから2年が経っていた。
平塚市博物館のHPによれば、「霧降瀑碑」は「武州忍藩(松平氏10万石・埼玉県行田市)の藩士千賀某に、吉沢村の人で売薬を業とする二宮石翠が碑文を依頼し、天保4年(18335月建碑された」ものだという。とすれば「不動尊石像」も、瀑碑と同時期に造立されたのだろう。眼の前の不動明王像は、当時の「不動尊石像」のままなのだろうか。もしそうであるならば、滝裏の直立する岩壁に据えられた不動明王像は、天保の大飢饉の年から200年近い年月、苔むすほどに吉沢の山や谷を見守り続けてきたことになる。
撮影してきた写真を拡大すると、「不動尊石像」の頭髪は巻き毛で、その体のシルエットに反して頬がこけ、ぐっと息をのみ込んでいるような表情に見える。八剱神社下に保管されている直毛の木造不動明王立像と共通するのは、“比較的に穏やかな印象”だろうか。
(余談:最近、『古仏微笑』という本のなかで、八剱神社の木造不動明王立像の素晴らしいモノクロ写真を見た。湯川晃俊氏による写真だった。これまで多く眼にしてきた正面像ではなく、やや斜め右から撮影されている。光の射し込み方の違いで、これほどに立体的な造形が浮かび上がるものなのだと思った。少年のように華奢な印象だった不動明王像が、壮年の肉体の厚み、精神的な厚みを湛えているように見える。しかも、その顎の中央は一本の指を深く押し当てたように窪んでいた。その深い窪みに不動明王の力、意志の強さが込められているように感じられた。)
こうして、久しぶりに下吉沢を訪れ、滝の水流が少なかったことが幸いして、霧降の滝の「不動尊石像」に出会えた。そして、タチツボスミレの健気な姿も数多く眼にすることができた。このような下吉沢・上吉沢の信仰の姿、自然の姿が、いつまで変わらないことを願うばかりだ。そして旧大光寺の“礎石らしき石”を、いつかまた確かめに出かけようと思った。

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    「不動尊石像」(私には新しい造立のように見えるのだが…。)

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  霧降の滝と、岩壁に据えられた不動尊石像

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スミレ①

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スミレ②

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テングチョウ

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