enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

抵抗感の正体

 若い頃、神社に詣でて、人前で拝礼することにかなり強い抵抗感があった。
 
 神社での一連の所作。
 お賽銭を投げ入れ、何かしらの願い事をする。
 その時、拝礼する自分の姿を他者に見られたくなかった。
 そうすることが”恥”(?)であり、”堕落”(?)のように感じていたのだと思う。
 なぜだろうか。 
 若く尊大だったからか。
 
 しかし、50代頃から、人前で拝礼することへの抵抗感が薄れていった。
 私はなぜ若い頃の抵抗感を失っていったのだろう。
 年を取って過剰な自意識から解放されたからだろうか。

 そんな私の中で、神社での拝礼への抵抗感が再び頭をもたげはじめた。
 それは、幼児に「教育勅語」を叩き込む躾をしてきた幼稚園についての報道がきっかけだった。
 その幼稚園を巡る問題が次々と掘り下げられてゆくうちに、私の中で”ねじれ”が生じていった。
 今や、その幼稚園経営者の異様な教育理念に対する嫌悪感よりも、その学園の教育理念に賛同して深く係わりながら、力づくでその事実を無かったことにしようとする政権周辺への嫌悪感のほうが、遥かに遥かに、大きく大きく上回っている。

 人は年を取ると保守的になるものらしい…若い頃、常々、そう想像していた。
 若い頃に感じた抵抗感は、感覚的なもので、理屈ではなかった。
 あの抵抗感の正体とは何だったのか。
 今度、神社に詣でる時、私はどのように振舞うのだろう。