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私の第三十四夜をつづります。

『イージー・ライダー』・『ひとりぼっちの青春』そして『黄昏』


今朝、パソコンを開き、P・フォンダの訃報を眼にして、一瞬、H・フォンダのものと勘違いした。
すぐに、いや、ヘンリー(父)ではなくピーター(息子)のほう…と思う。

そして遠い昔の映画の記憶…ヘンリーの息子ピーター、娘ジェーン、そして父・娘のそれぞれが出演した映画の記憶をたどった。

学生時代にピーターの『イージー・ライダー』・ジェーンの『ひとりぼっちの青春』を見たあと、かなりの時間を経て、ジェーンとヘンリーが共演する『黄昏』を観てみようと思ったのには、たぶん、私なりの理由があった。
彼らそれぞれの際立った個性を、理屈抜きでひとくくりにしてしまうのが、その容貌(瞳や睫毛?)や骨格のイメージの共通性であることに、若い頃の私が興味を感じていたからなのだと思う(彼らは家族であり、その共通性は当然なのだけれど)。

イージー・ライダー』…思い浮かべるのは、あの異様に傾いたオートバイの高く長いハンドルとその疾走感。それが象徴する自由や逸脱への衝動。その危うさ・脆さ。
そうした自由と逸脱を表明する存在と、それを異質なものとして嫌悪・憎悪する別の存在との出会い。その衝突。

また、『ひとりぼっちの青春』…当時の私は、ラストの悲劇的な結末より、ヒロインが”絹のストッキング”を失ったことに絶望するシーンに、リアルな強い痛みを感じた。

ピーター・フォンダの訃報…そのことをきっかけに、しばらくの時間、古い映画の記憶を思い起こし、さらには、そこから2019年現在を眺め直したりした。

今もなお、自由が出会う軋轢、貧困が陥る絶望 、あるいは個人と社会との間や、弱者と強者との間で繰り広げられる弱肉強食の戦い…そうした状況がほとんど変わっていない2019年夏…そんなことを思った。

 
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