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私の第三十四夜をつづります。

佛法紹隆寺(諏訪市)を訪ねる。

 

年末を前に、友人たちと蓼科・親湯温泉に集まることになった。

17日未明、平塚駅始発の電車で茅野駅へと向かった…私の場合、松本方面はいつも各駅停車で4時間半以上の旅になる…。

11月の一人旅に続く電車の長旅は、車窓から沿線の山景色などを眺めて過ごした。
(「特急あずさ」の待ち合わせ時間に、日野春駅のホームに降りて薄化粧の甲斐駒ヶ岳をカメラに収めたりした。)

順調に茅野駅に着くと、空は晴れ、空気が冷え込んでいた。
まだ、9時半…午後、友人たちと逢うまでに充分過ぎる時間がある。

そのままリュックをかつぎ、諏訪市の佛法紹隆寺に向かうことにする。
(観光案内所で古道ルートを教えてもらい、帽子・マフラー・手袋で身を固めて歩きはじめた。)

その古道は、「古道 ふるみち 」「慶長道路」と呼ばれる道で…慶長年間に整備された道なのだろうか?…、途中で旧甲州街道と重なっている。
山裾をほぼ直線的に走る「慶長道路」からは、諏訪盆地に広がる市街地、眼下を走る鉄路、真向かいの山並みが見渡せるのだった。
(帰宅後に Google  の航空写真を見ると、茅野駅から塩尻峠にかけての諏訪盆地は眼のようなレンズ型で、真ん中の諏訪湖は青い瞳のようだった。)

車や人の通りの少ない古道を、西の山並みを視界の端にとらえながら、のんびりと佛法紹隆寺をめざした。
道沿いの旧家の白壁に示された屋号のような紋や、「武将之古墳」と刻まれた碑、分かれ道に据えられた道標や一里塚の碑、ゆかしい石塔などを眺めながら(「二十三夜塔」もあった)見知らぬこの地の歴史・風土へと想いが広がった。

途中で行き逢った地元のかたに、「中山道を歩いているのかね?」などと声をかけられながら、古道より少し高台に建つ佛法紹隆寺の門にたどりつく。
境内に入り、その優れた立地を体感する(それは、以前、甲府を訪れて大善寺から眼下を眺めわたした時に感じたものと似通っていた)

案内を請い、さっそく宝物殿、普賢堂、本堂、庭園などを巡った。

宝物殿では、小さいながら華やかな「清滝権現像」の近くの空間がポッカリと空いていた。
「伝  運慶作」の不動明王立像の姿が見当たらないのは、博物館などに貸し出され、お留守なのかもしれなかった(ちょっと残念に思った)

宝物殿から普賢堂へと、静かな境内の奥に進む。

普賢堂の内部は、闇と光が際立った不思議な空間だった。
お堂の中央に、普賢菩薩像を乗せた象が、こちらに向かって進んでくるような姿で浮き上がっているのだった。

眼を引くのは、その象の存在感だった。
非現実的な微笑…アリスのチェシャ猫みたいな…を浮かべ、背中の大切な像をそろりそろりと、バランスをとりながら運んでいる途中のようだった。

そして、お堂の向かって左手奥には、十一面観音様の妖しく黒光りする姿があった。
その艶めかしいお像は普賢菩薩騎象像の位置より背後に退き、あたかも象とともに旅だった普賢菩薩像を見送るような距離感を感じさせた。
そして十一面観音様もまた、エキゾチックな照明器具によって、より生々しい女性像として息づいているようなのだった。

この普賢堂そのものが現実世界から遠のいた異世界の空間に変じていて、私はそこに入り込んでしまったようなのだ…なんとも不思議なお堂だ…

夢見心地で普賢堂を出て裏手のお庭を拝見する。

庭石を眺め、現実世界に戻り、本堂に向かった。

拝観を終えて受付に戻り、不動明王像はどこかに出品中なのかどうか、思い切って尋ねてみた。
すると、不動明王像は調査作業のために、本堂の裏に移されていることが分かり、幸運なことに、そこで拝見することができたのだった。

本堂の裏の暗がりで、ご住職とお話しながら、小さなお厨子のなかの不動明王像のおぼろげな姿を見上げた。
何しろ、ピーター・パンのように小柄なその姿に驚く。
(どのような信仰のもとに、このように私でも抱きかかえられるほど小さな不動明王像の造立を思い立ったのだろう? 明日の学術的な調査では、どのような成果が出るのだろう? やはり「伝  運慶作」の枠は外れないのだろうか? それとも新たな見解が示されるのだろうか?)

不動明王像に束の間でもお目にかかることができたことをありがたく思い、ご住職にお礼を申し上げて本堂をあとにした。

境内は先ほど門をくぐった時と同じように、現実の世界そのものだった。

ここから、再び同じ古道をたどって茅野駅に戻るのだ…。

茅野駅の手前で、西の彼方の空から飛んできた小雪に驚いて空を見上げる。
大丈夫、ここは青空だ…友人たちとの約束の時間には充分間に合いそうだった。

 

 

頂上に雲がかかる甲斐駒ヶ岳(12月17日 JR中央本線  日野原駅のホームから)

 

「慶長道路」と旧甲州街道の合流地点の道標(北から)
茅野駅から歩いてきた「慶長道路」(向かって左)をふり返る。右の分かれ道が旧甲州街道

 

山寄りの佛法紹隆寺に向かう小道との分かれ道に立つ道標(北から)
道標には「左 江戸みち  右 大明神江」と記され、「大明神」は諏訪大社を指すようだ。

 

普賢堂(佛法紹隆寺)

 

普賢菩薩騎象像(佛法紹隆寺 普賢堂)


十一面観音立像(佛法紹隆寺 普賢堂)
その胸、衣を通して浮き上がる両脚、紅色の唇といった表現が、私には仏像とは異なるように感じられた。
(その姿・形は、普遍的な仏像表現のようには受けとめられなかった。同時に、神像のような表現…硬直して畏まったイメージだったり、あるいは、近づきがたく超越したオーラ・気配感…にも全くあてはまらなかった。仏像でも神像でもない何か別のもの …あくまでも個人の崇拝対象として、仏像の規範から逸脱した姿・形に立ち上げられた像容に思えた…原初的な”神像”の姿なのだろうか?…。)

いったい、このお像の由来とはどのようなものなのだろう?



【個人的map:茅野駅から「慶長道」をたどって佛法紹隆寺へ】