折りしも秋色が深まるなか、いずれのお寺も、瞑想に入っているかのように閑かなたたずまいだった。
大沢山円通寺:表門
畏れ多い気持ちで表門をくぐる。
本堂では、まず、「銅造阿弥陀如来立像・両脇侍」を拝観する。
素朴で優しい脇侍の表情…銅造であるのに、”あたたかさ”さえ感じられる。
両脇侍の手の重ね方(右掌を左掌の上に置く)や衣の表現はほとんど同じ形(型?)であるようだ。
他例に比べ、左脇侍と右脇侍の区別が難しいのでは?などと感じた。
大沢山円通:一切経塔
上下二層のめりはりのあるバランスや、下層の花頭窓と上層の丸窓のデザインが魅力的な経塔。
ご住職の「大沢文庫」についてのお話の合間にも、静かな沢の音が響いてくる。
独鈷山普門院西明寺:楼門と三重塔
本堂から振り返って見た三重塔の銅葺き屋根の曲線(反り方)に驚いた。
三層目が三段に葺かれているためだろうか、スカートのような広がり方。
(ただ、これが二段では、全体のバランスが崩れてしまうと思えるのだけれど…。)
また、この三重塔とどっしりとした茅葺の楼門との近すぎるほどの距離感は、そのまま境内の密集感につながってゆく。
この密集感は、本堂内の仏像群の密集感ともぴったり重なるように思えた。
三重塔の垂木
一層目は平行(繁)垂木、二層・三層は扇垂木との説明を受け、みな、一斉に軒を見上げる。
思わず椎茸の傘の襞を連想したほど、びっしりと垂木が並ぶ。
西明寺本堂に置かれた存在感のある男女の木像:高館山に住まわれる男女の神様のようにも…?
本堂内は閉鎖的な…胎内のような?…空間だった。
往時の荘厳さを偲ばせる厨子の前に、所狭しと並び立つ仏像群にただ圧倒される。
なかでも「延命観音立像」とされる像の首周り・腰周りの豊満さに、もともとの木のエネルギー、命のようなものを感じた。
いつかまた、ゆっくりとこの”ふれあいの道”を歩いてみたいと思った。
(最後に訪ねた地蔵院は、西明寺の東約2kmの位置。)
大羽山地蔵院:山門
今回訪ねた三つのお寺のなかで、もっとも奥まった地に行き着く。
地蔵院、綱神社、宇都宮家の墓所が並ぶ。
古代において郡家と寺院が近接することにも似て、地域の有力者の力を想像させる立地だ。
地蔵院の仄暗い本堂に入る。
冷え冷えとした空気に身が引き締まる。
黒々と焚き染められたような「木造阿弥陀三尊像」を緊張しつつ間近に拝する。
何と細やかな…繊細・精緻というのだろうか。
腰をかがめる観音菩薩坐像の横顔は、どこかインド的でエキゾチックにも見える。
立体造形にこそ宿る生命感に胸が躍った。
写真では、やはり限界があるのだ…似て非なるものなのだ、と思った。
大羽山地蔵院:本堂
今回の旅の主目的の一つ…「木造阿弥陀三尊像」がひっそりとすまわれている本堂を出る。
参加した人々はみなホッとしたように見えた。
最後に宇都宮家の墓所も訪ねた頃には、わずかな陽射しも消え、ひときわ寒さが増してきた。
東京へと戻るバスの中で、今日一日を振り返る。
疲れよりも、良い旅を終えた安らぎを感じながら。
今回の旅で改めて強く思ったのは、仏様はお寺のあるその地で拝むべき対象…ということだ。
その美しさは博物館でも美術館でも感じ取ることができるのだけれど、その”何か”なるもの…長い時間を経て人々の信仰によって育まれた何か…は、そもそもの信仰の場にあって、直接的に五感で感じ取るものなのだろうと。