enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

老執事の目

 友人が「『日の名残り』を読み始めたところ・・・」とメールしてきたのは去年の12月半ばだった。その後、何回か、小説の雰囲気について感想を知らせてくれた。
 この友人のメールをきっかけに、私も読んでみようかな…などと血迷ってしまった。文学作品を、それも翻訳小説を読むことなど、とうの昔に忘れてしまっていたことだったのに。たぶん、”日の名残り”という日本語のタイトルの響きに心惹かれたのだった。
 
 図書館で借りることにした『日の名残り』は予約者が多く、順番待ちの本だった。
 1月末になって、ようやく読み始めることができた。しかし2日目、早々に挫折した。まだ読み始めたばかりで…と思った。友人は読み通したのに…とも思った。それでも、もう一度と奮い立つことなく、そのまま投げ出してしまった。
 
 一方で、小説を読み通すことは無理でも、映画であれば今の私でも…と未練がましい気持ちがあった。
 自分の安易さを疚しく思いながらビデオを予約し、昨夜、その映画…『The Remains of the Day』 1993年…を観た。原作(翻訳)を”棚に置いて”観た映像世界。
 老執事役の俳優の特異な目の表情に吸い込まれ、最後には、ダーリントン邸から空に飛び立った鳩の視界を共有して観終わった。 
 観終わったあと、原作の”The Remains of the Day”とは、何を意味するのか? 映画は原作の世界をどう解釈したのか? モヤモヤが残った。それは、自分が小説を読み通せなかったためなのかもしれなかった。読み通すべきだったか?…映画を観終わった今となっては、もう遅いのだけれど。

 映画では、老執事は、外界からもたらされる刺激(彼にとっては無秩序な?)に対し、あたかも人工知能的な反応…戸惑い→彼なりの合理的理解→彼なりの誠実な対応…をする人として描かれているように感じた。ただ、俳優の複雑な目の表情が、そうした表面的な解釈を許していないようにも思えた。
 また、ビデオの”粗筋”では、この映画のテーマ(?)は、”老執事と女中頭の抑制された恋愛”であるかのようにまとめられていた(映画を観る限り、その一面が描かれているとしても、あの二人の係わり方が果たして”恋愛”なのだろうか? 小説ではどうなのだろうか?といぶかしく感じた)。
 
 結局のところ、原作(翻訳)を読むことに挫折してしまった私にとって、映画の『日の名残り』のなかで、何かを感じるだけしかない。あれこれとモヤモヤしながらも、ミス・ケントンや老執事やダーリントン卿が、ユダヤ人の小間使いの少女たちの解雇について、それぞれの痛みを表白する場面は、心に残った。誰にでも分かる言葉で誠実に語られていたから。といって、こうした倫理的な問いかけの場面は、映画の中ではごくわずかに散りばめられているに過ぎなかった。
 また、本筋(何が本筋か?が不明なのだけれど…)を離れたところでは、20世紀前半の諸国外交は、この映画のように、”会議は踊る”風の19世紀的なイメージ…各国の代表者たちが貴族の館に招かれ、寝食をともにして会議をし、晩餐会で賓客がリートまで披露するような…で描かれるものなのだろうか?という驚きもあった。
 ともかくも、映画のほうは最後まで、私をその世界に浸らせてくれたことは確かなことだった。
 
 時代と共に古びてゆく世界、そこに生きた人々…今となっては哀しいようでもあり、滑稽なようでもあり、愚かしいとさえも言い得る…しかし、どの時代にあっても世界の時間はとどまらず、人生の時間もとどまらず、古びていくのだ。
 そして、あの老執事の目は、時代の虚無を受容するうちに、あのような光を宿すようになったのではないのか…そんな疑問が残る。その答えは原作(翻訳)のなかにあるのだろうか。どうなのだろう…?