若い頃、ランボーという詩人の若い肖像に魅せられた時期があった。
その翻訳詩のほんの一部を読んだだけだったし、彼がどのような人生をたどったかも、詳しくは知らなかった。ただ、彼が詩作を放擲し砂漠の商人となったことに、この詩人に運命づけられた狂おしい渇望、詩作品と拮抗する硬質で散文的な渇望を想像し、その乾いた詩人像に惹かれたのだったと思う。
”(アラビア・)アフリカ書簡”という”テキスト”を追いながら、時に、先行した詩作品を呼び戻して、相互照射を試みる…著者の緻密な工夫によって丹念に新たに豊かに造像された”アフリカのランボー”の姿は、何と生き生きとしていることか。
「書簡作者(エピストリエ)」という言葉も、その在り方もこの著作で初めて知った。書簡を精緻に読み込むことで、こんなにも生々しい映像を呼び覚ますことが可能なのか…。まさしく、「書簡作者(エピストリエ)」としてのランボーの横顔が浮かび上がってしまっている…。
長生きをしたことで、偶然に本を手に取ったことで、こんな喜びが生まれることもあるのだ。若かった頃の自分には分からなかったことが、少し分かるようにもなるのだ。
“15 アビシニアの<政治的痙攣>付・使節団のイタリア派遣”から引用~
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ランボーの戦争観は一貫している。「パトリオパトロール[愛国哨戒]」に辛辣な嘲笑を投げかけ、「軍靴を動かしなさんな!」といさめるように、詩人がもっとも唾棄するのはナショナリズムとパトリオティズムが駆動する帝国主義の戦争なのである。
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