北海道を旅したのは、小学校に上がってから両親と一度、そして学生時代に一度、社会人になってから二度。どれも私にとって距離・長さ・密度とも大きな旅だった。
最初の旅はたぶん八月。電車で延々と北上し、大波に揺られる青函連絡船で一夜を過ごした。旅館だけでなく、父の実家、母の親戚・友人の家々にも泊まった。
夕張の実家を離れる時、タクシーのなかで父が泣くのを初めて見た。振り返ると、祖父たちが手を振っている。みんなの姿が遠く小さくなってゆく…今思えば、”地下鉄のザジ”のような眼で巡った道南・道央の旅。
学生時代は夏休みに友人と計画を立て、ユースホステルを泊まり歩き、道東まで足を延ばした。初めて広い世界に飛び出たような自由を感じた。未来しか見えなかった頃の旅。
社会人になってからは、再び道南・道央の地を訪れた(夕張の祖父はとうに亡くなっていた)。道東を自転車で走ったりもした(自転車を別便で送り、組み立て、虻に追いかけられながら峠越えをする…どれほど元気だったのだろう)。忙しくかつルーティンな生活のリズムから解放される旅だった。
若い頃の旅が、見知らぬ世界との活発な対話の時間でもあったのに対し、老境の旅は内向きの独白の時間になりつつある。見知らぬ世界に招き入れられることもないし、踏み入りもしない。
若い頃には、世界は果てしなく膨張するように感じられたけれど、今では視るものが身近な小さいものばかりになってゆくようだ。自身の収縮した脳が受容・認識できる世界が相応にしぼんでしまったからだろうか。