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私の第三十四夜をつづります。

子易・中川原遺跡:6-3工区の1号墳

 6日午後、子易・中川原遺跡(伊勢原市)の現地説明会に出かけた。
 鈴川左岸域での古墳発見に続いて、今回初めて、右岸段丘面でも古墳2基(1号墳・2号墳)が発見されたという。 
 何回も通った調査地域に着く。
 まず、チョコレート色の土と白い石のコントラストに眼を奪われる。
 鈴川の向かい側(左岸)で、2013年に中世の石敷道路状遺構が検出された伊勢原市№163遺跡の現場は、こことはまた違った色合い…黄土色?…だったように思い出す。
 そして、石室も石積みも、輪郭がはっきり見て取れる形で残っている。
 調査員の方の説明を聞きながら、 『府中市と同じように、”上円下方墳”ということになるのだろうか?』と、久しぶりにワクワクする。
 なお、今回注目されている1号墳の遺物の展示は無く(玄室床面から人骨=歯5点が出ているが展示はされていない)、左岸の古墳からの出土遺物を見ることができた。
(担当者の方は、三ノ宮地域の古墳群のような優品の副葬品が無かったことについて、盗掘ではなく、被葬者が、副葬品よりも、”方形”という特別な墳形を重視したからではないか?と解釈されているようだった。)
 果たして、1号墳の貴重な遺物としての”歯”から、優品以上の科学的な成果を得られるかもしれないし…などとも思う。これから調査が続いてゆく段階では、妄想の自由度が高まるばかりだ。

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1号墳(南から):
玄室の奥壁は二つの石で、また天井石はそれほど大きくはない石を持ち送りの形にして構築されていた、とのことだった。
府中市の”上円下方墳”の石室下については掘り込み地業・版築工法が行われていたのに対して、この1号墳の石室下はどうなっているのか、が気になってくる。


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1号墳(西から):
方形の下段と上段(円形?)の形状が立体的に見て取れる。
それにしても、府中市の”上円下方墳”のように、横穴式石室の上に墳丘が残っていないのが残念だなぁと、つい比べてしまう。

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1号墳(北から):
この位置からは、遠く、伊勢原市街を望むことができる。
府中市の”上円下方墳”も府中崖線上に立地しているので、おそらく、当時の崖線上の古墳から、多摩川方面の眺望がきいたのでは?と想像した。)

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1号墳の墳丘内石列(外側)と外護列石の近接部分(北から):
円形(?)の墳丘内石列(外側)と、方形下段の外護列石とがほぼ重なっている部分の下部構造が見て取れる。
説明のなかでも、「もともとは円墳で、最終的に下段を方形に造り直した」という解釈について、言及されていた。確かに、そのように見える。では、なぜ、そのようなプラン変更がなされたのだろうか? 


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畿内土師器坏”と須恵器長頸壺(上粕屋・子易遺跡 13-4 工区 3号墳):
鈴川左岸からは、畿内産土師器を模倣した”畿内土師器坏”が出土していたのだった。模倣品としても、とても美しい坏、と感じた。そして、どこかしら、被葬者の仏教的な暮らしを想像した(=妄想した)。
また、こうした模倣品と純正の”畿内土師器”とでは、出土の意味づけが変わってくるのだろうか。模倣品はどのようにして見分けることができるのだろうか。妄想と疑問が湧くばかりだ。

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須恵器広口壺(子易・中川原遺跡 5b工区東 2号墳):
この須恵器だけが、他の灰白色の須恵器と異なり、黒光りしている。 肩から暗緑色の厚い釉が垂れていて、それも美しく思った。生前の愛用の品だったのだろうか、などとまた妄想する。

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天井石などの集積場所:
今、写真だけを見ると、この場所に置かれた石は白くない。むしろ赤い。石も、空気や光にさらされると、色が変わってゆくのだろうか。

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1号墳が立地する鈴川右岸の段丘面から南東の伊勢原市方面を望む:
この眺めは、平塚で言えば、吉沢からの眺望に少し似ているように感じた。
東名高速道路が完成した時、ここで畑仕事をする人々の前には、どのような景色が広がるのだろう。

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東名高速道路の建設現場(写真手前の竹やぶの下に鈴川が流れる):
発掘調査の成果が報告されるたびに、不可逆的な大規模開発と引き換えの調査成果であることを強く意識させられる…そういう現場の姿。
大山を源とする鈴川は、”相武国造の奥津城”とされる三ノ宮(比々多神社)地域を通り抜け、平塚市内で金目川・渋川と合流し、花水川となって相模湾へ流れ込む。
そして、その鈴川を新東名高速道路が横断するのだ。今回の遺跡周辺の景観は、今、大きく改変されている。
(1日に巡った笛吹市の福光園寺の裏手もまた、リニア線予定ルートとなっている…「花鳥トンネル」・「黒駒トンネル」といった美名が付されている…ことを知ったばかりだ。そして、私はその地に行き着くために中央高速道路を利用しているのだった。)
発掘調査された遺跡が元に戻らないように、その遺跡を形成した景観も失われてしまう。そのことだけが、いつも悔やまれる。

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子易・中川原遺跡:6-3工区  古墳(1号墳)全体図
                   (現地説明会資料の図を縮小して転載)
                   【註】図中タイトルの(1/100)は原図での縮尺。

この全体図の下には、次のような詳しいデータが示されている。
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墳丘形態:方墳(下段が方形、上段は不明)、周濠は不定
方形石積:一辺14.8m(上端)、墳丘西隅に隅切り、小口積み、最大5段(現存)、傾斜角約60度
墳丘内石列(外側):主軸長14.0m(推定)、副軸長13.6m、小口積み、段数不明
墳丘内石列(内側):主軸長11.8m(推定)、副軸長10.5m、小口積み、段数不明
石室(横穴式石室):主軸長7.9m(現存)、副軸長6.8m(推定)、玄室主軸長3.7m(内寸推定)、奥壁2段積み
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 【参考】
沼津市:清水柳北1号墳(8世紀初頭)
  *下方部:約12m×12m、高さ1m
  *上円部:直径約9m、高さ約1m
  *周溝:方形

上図と下図(”上円下方墳”の武蔵府中熊野神社古墳)を比べると、1号墳の規模は武蔵府中熊野神社古墳の約2分の1弱と小さく、墳丘内石列の平面形も楕円形に近いように見える。
また主体部の軸も、武蔵府中熊野神社古墳は神社社殿(やや東に振れる)と一体化しながらも、ほぼ南北方向であるのに対し、1号墳は南東方向を正面としている(鈴川の流路などに制約された方向なのだろうか)。

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(2003年12月13・14日開催の現地説明会資料の図を縮小して転載)
【註】図中タイトルの(1/200)は原図での縮尺。

【参考】
武蔵府中熊野神社古墳(7世紀中頃)
 *下方部(1段目):32m×32m
 *下方部(2段目):23m×23m
 *上円部(3段目):直径16m
 *墳丘高さ:5m
〔『ふるさと府中の歴史・文化遺産を訪ねて №2』 (2009年3月)から〕


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復元された武蔵府中神社古墳の写真:『朝日新聞』(2012年1月6日)から縮小して転載。