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私の第三十四夜をつづります。

あつぎ郷土博物館の展示を見学して。

11日、考古学のサークル活動として「あつぎ郷土博物館」に出かけた。
かつて街中にあった手狭な印象の資料館は、新たな形で厚木市北東端の中津川べりへと移転していた(市中心部から遠いことを除けば、新しい博物館の展示は素晴らしいものになっていて、まさに隔世の感…)

まずは、特別展「有孔鍔付土器と人体装飾文の世界」を見学する。
何よりも”有孔鍔付土器”の器形と文様の多様さに眼を奪われる(共通項・基本要素は、その土器名称のとおり、口縁部の周囲に開けられた小さな孔の連なりと鍔のような凸帯だけのように思えた。そして、地域色のようなまとまりを感じさせながらも、モチーフは決して画一的ではない。有孔鍔付土器とは、こんなにさまざまだったのかと驚かされる)。

また、その変遷の流れ(起源~発展~終焉)を追ってゆくなかで、縄文中期の時代に生きた中部・関東の人々の姿が、それらの特異な装飾文様を通して迫ってくるように感じた(相対的なそれぞれの地域色というものはすでに縄文時代から土器を通して形成されていること、しかも時間と空間の移動に沿って微妙に変異してゆくことに、文化の生命体的な動きを見る思いがした)。

そうした個性的な”有孔鍔付土器”が連なるなかで、エントランスに独立展示されていた「津南町 道尻手遺跡 出土品」の文様と器壁の薄さはとくに印象深いものだった。
今回の展示資料の一つである「平塚市 上ノ入(かみのいり)B遺跡 出土品」の文様も抽象化・洗練化されたものだけれど、津南町出土品のシンプルな装飾文様は素っ気なくさえ感じられた(4分割された区画面のそれぞれに ♡ ・∩・♡・∩ の文様が一つずつ施されるのみなのだった。そして、 はあの有名な”縄文のビーナス”の顔のライン、 はその頭髪?のラインを抽出したような形に見えたりした)
『あの大地震の被害を受けなくて良かったね…』と思いながら、その素朴な姿をカメラにおさめた(一律に「写真撮影禁止」ではないことが嬉しかった)

特別展で縄文時代の世界に迷いこんだあと、常設展を見学する。選りすぐられた資料を見るうちに、これまで馴染みの薄かった厚木地域が、ずいぶんと身近なものに感じられるようになった。

思えば、私にとって、厚木の歴史を代表するものは”古墳”が主なものだった。
この新しい博物館で登山(どうやま)古墳群1号墳の埴輪たちがゆったりと展示されている様子を見ながら、かつて、登山古墳群2~4号墳の現地説明会(2000年2月20日に出かけたことを思い出した(とても寒い日で、担当者が鼻水をすすりながら”礫郭”について説明するのを聞いたのだった)。また、中依知遺跡の1~3号古墳の現地説明会(2002年7月20日にも出かけた。
今となっては、古墳時代について一生懸命学ぼうとしていた頃が本当になつかしい(何事も、懐かしむだけになってはオシマイ…と思いつつ)

また、古代の展示コーナーでは緑釉陶器埦(金田北海道遺跡第4地点出土)の展示や、「双頭龍紋鏡(複製)(戸田小柳遺跡出土)を見て久しぶりに刺激を受けた厚木市の緑釉陶器出土地としては、鳶尾遺跡・峯ヶ谷戸遺跡・愛甲宮前遺跡などを聞き知るだけで「金田北海道遺跡」は初めて知る遺跡名だったし、小型の銅鏡は水辺の祭祀に係る資料として気になるものだった)

【補足】
帰宅後、この「双頭龍紋鏡(戸田小柳遺跡出土)」について調べると、次のことが分かった。(参考:「事例報告1「戸田小柳遺跡」戸羽康一〔『古墳時代のムラの鏡』2020年 かながわ考古学財団〕

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・玉川(戸田の近くで相模川に流れ込む)の旧流路(H20号流路の覆土上層)から、弥生時代後期~古墳時代後期の土器と共伴して出土
・「位至三公」の銘文のうち「位至」の文字が残る
・「破鏡」である可能性(鏡面に傷をつけ、流路に遺棄した行為が想定される)
・中国で2~3世紀後漢~魏・晋の時代)につくられたもの
・最終的な廃棄時期は古墳時代後期
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こうして、縄文時代から古墳時代・古代などの歴史をほんの一部分おさらいすることで、錆びついた頭はそれなりにフル回転することになった。
かつては、伊勢原も、小田原も、茅ケ崎も、大磯も、仲間と共に元気に巡り歩いて、今日のように、考古学の世界にワクワクしていた。私の人生の残り時間はずいぶんと少なくなったけれど、今春、考古学のサークルに入り直して良かった…夕闇の中を平塚に向かうバスのなかでそう思った。

 


道尻手遺跡出土の有孔鍔付土器津南町教育委員会所蔵)
【あつぎ郷土博物館:令和4年度特別展「有孔鍔付土器と人体装飾文の世界」展示資料】

 

緑釉陶器(左:金田北海道遺跡第4地点 右:妻田中村遺跡)
【あつぎ郷土博物館:展示資料】

 


廊下の壁に架かる特別展のタペストリー:
絵柄は平塚市博物館所蔵の有孔鍔付土器(上ノ入B遺跡出土)。
「神奈川県における有孔鍔付土器の様相」(副島蔵人 『考古論叢 神奈河』第18集 2010年 神奈川県考古学会)によれば、
平塚市上ノ入B遺跡16号住居址出土例も共伴遺物から11期【註:加曾利E式期】としてもよいが、施文から見て9期【註:勝坂式期】であるが【註:原文ママ】非常に高いため時期は不明とした。このことから、有孔鍔付土器が伝世する可能性も考えられる。」
とされている。このことも、今回、帰宅後に調べて初めて知ることだった。

 

中津川左岸から見る大山:
博物館で解散後、鳶尾遺跡に向かったつもりが、方向音痴のために逆方向に川べりを歩いてしまった。その間違いに途中で気がつき( ♫ 遺跡がどんどん遠くなる…遠くなる…今来たこの道帰りゃんせ…帰りゃんせ… ♫ )、再び博物館へと引き返すことになった…地図を持っていてもこうなのだから…まったく…やれやれ…。