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私の第三十四夜をつづります。

真土大塚山古墳の副葬品:「金官加耶産の有肩袋状鉄斧」

 

かつて相模国府について学んでいた頃、「相模国府年表(7~12世紀)」を自分の覚書としてまとめたことがあった。
その作業のなかで、具体的に良く理解できない用語の一つとして、”勅旨田”というものがあった。当時の相模国司や郡司たちの資料上での動きや、9世紀代の遺跡の性格を解き明かす鍵となるタームかもしれない…と、他国の事例などをあれこれと調べてみた。しかし、結局、その実態や意味付けにはたどりつけず、用語のうわべをぼんやりとなぞるだけで終わった。

また、その作業で初めて”百済王教法(くだらの こにきし  きょうほう)”という名を知った。
(年表の項目としては、”802年 桓武天皇女御・百済王教法 大住郡に田2町”として載せた。)
そして、”大住郡の田2町”が与えられた「百済王教法」という女性が、その名が示すように、渡来系氏族であることに関心を持った。いったい、韓半島から来た百済王の氏族とはどのような人々だったのか、彼らは日本の歴史にどのような足跡を残したのだろうか…見知らぬ渡来系の人々と相模国との係わりについて、とりとめのない妄想をめぐらしたのだった。

その頃から10年以上経ち、『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』(朴天秀 2007年  講談社)を読みはじめたばかりの私に、韓半島相模国との係わりの妄想が再びよみがえった。

その『加耶と倭』は、3~6世紀の加耶百済新羅と日本列島との交渉を考古学的な視点から捉え直す著作で、昨年末に奈良市・富雄丸山古墳の調査現場を見た私にとって、韓半島と日本の古墳の出土資料を比較する視点は、とても新鮮なものに思えた。

とりあえず、真土大塚山古墳の時代に頭を切り替えて『加耶と倭』を読み始めた私の眼は、「金官加耶と倭」という項の一文(p.32)に釘付けになった。その一文に「神奈川県真土大塚山古墳」という文字が混じっていたからだった。

その一文の主旨は次のようなものだ。

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金官加耶産の板状鉄斧・有肩袋状鉄斧が、古墳時代前期の京都府 椿井大塚山古墳、岡山県 備前車塚古墳、京都府 長法寺南原古墳、愛知県 東之宮古墳神奈川県 真土大塚山古墳群馬県 前橋天神山古墳、福島県 会津大塚山古墳など、各地の有力首長墓に副葬される
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まず、真土大塚山古墳の出土遺物として、”鉄斧”があったことは覚えていた。しかし、そのなかに「有肩袋状」とされる鉄斧があること、ましてや、それが「金官加耶産」であることは初めて知ることだった。

また、この一文に挙げられた椿井大塚山古墳・備前車塚古墳が、真土大塚山古墳の副葬品”三角縁四神四獣鏡”の同笵鏡を出土する古墳であることにも、興味をそそられた。

すぐに、『平塚市史11上 別編考古(1)』(1999年)や『相武国の古墳-相模川流域の古墳時代-』(2001年 平塚市博物館)を開き、その鉄斧の存在を確認した(”袋状鉄斧”とされている)。次に「有肩袋状」の意味を調べ、ようやく真土大塚山古墳出土の”袋状鉄斧”についての認識を新たにすることとなった(金官加耶産の有肩袋状鉄斧」の可能性があるのだと)。

ただ、市史や図録の実測図や写真を見ても、”袋状”であることは確認できても、「有肩袋状鉄斧」というものかどうかは確かめられない(ちなみに、三角縁四神四獣鏡をはじめ、真土大塚山古墳の有数の出土遺物のほとんどが東京国立博物館所蔵となっている)。

思えば、近年、真土大塚山古墳など、地域の古墳時代の様相について、新たな研究成果の発表などに接する機会が無かった。
今回のように、読書を通じて、たまたま、その出土遺物に関する新たな情報を得ることはあっても、多くの人(地元の市民など)に周知されるわけもないのだった(新たな情報を共有する機会が少なくなりつつあるのはさびしいことだ)。

また、真土大塚山古墳出土の袋状鉄斧が金官加耶産の有肩袋状鉄斧」である可能性について、生半可に理解した時点で、新たな謎も生まれてくる。

*なぜ、金官加耶産の有肩袋状鉄斧”が真土大塚山古墳に副葬されたのか?

三角縁神獣鏡の同笵鏡を共有する椿井大塚山・備前車塚・真土大塚山の三つの古墳が、そろって金官加耶産の有肩袋状鉄斧」を持つことに、”偶然”以上の意味はあるのだろうか?

*もし、真土大塚山古墳の”袋状鉄斧”が”金官加耶で4世紀に制作された有肩袋状鉄斧”であるならば、古墳の築造年代を4世紀代とする論の傍証の一つになるのだろうか?

【註】前掲の「金官加耶と倭」の”一文”(p.32)へと続く前段には、「金官加耶」の成立時期などについて、次のような記述がある(以下の引用文の後半は、前掲の”一文”の原文)。
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(p.31)…(前略)金官加耶の成立は、金海市内の中心部に位置した大成洞古墳群をその始まりとする。三世紀中葉を起点に丘陵頂上部に王墓域が形成される…(中略)…

 (p.32) 金官加耶と倭

 大成洞古墳群では四世紀になると、中国産鏡と北方系銅鍑(どうふく)の副葬が衰退し、日本列島産文物が副葬されるようになる。これは三一三年前後における楽浪、帯方の衰退を契機として交易が日本列島に集中することによるものであろう。さらに日本列島産文物は良洞里古墳群で副葬されていた九州産広形銅矛と倣製鏡が消え、畿内地域の首長墓で出土する巴形銅器が取りつけられた盾、石製品など近畿系文物が主流を占めるようになる。
 その一方で、大成洞古墳群の副葬品である鉄鋌と鉄製品、馬具、筒形銅器が日本列島に移入され、畿内の首長墓に副葬される。特に金官加耶の板状鉄斧と有肩袋状鉄斧が、古墳時代前期の京都府椿井大塚山古墳、岡山県 備前車塚古墳、京都府 長法寺南原古墳、愛知県 東之宮古墳、神奈川県 真土大塚山古墳、群馬県 前橋天神山古墳、福島県 会津大塚山古墳(カラー図版参照)など日本列島各地の有力首長墓に副葬される。…(後略)…
【『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』(朴天秀 2007年 講談社)から抜粋・引用】

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新たに得た情報が、新たな問いかけを生む。
加耶と倭』の読書はまだ始まったばかりだけれど、私のなかで、表面的な理解で固定したままだった真土大塚山古墳のイメージが、空間的には、東国の地から海を越えた韓半島にまで広がったように思う(寄り道と妄想が多くて、読書はなかなか進まない…)。

 

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 『平塚市史 11上 別編考古』(p.678 図103)から:
右上の 2 が”袋状鉄斧”とされる資料。断面図では、身と刃が一体構造で
作られているように見える。
【註】
弥生時代後期初頭までさかのぼる袋状鉄斧は東海地方では初例であり、
また朝鮮半島産と考えられる有肩袋状鉄斧としては、東日本最古の資料」
参照】
とされる朝日遺跡(愛知県清須市名古屋市西区)出土の「鍛造
有肩袋状鉄斧」
のように、 身と刃を別個に作り、合わせたものかどうか
は、この図からは判断できない。)

* http://www.maibun.com/KihonDate/open/001.html

 

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『相武国の古墳-相模川流域の古墳時代-』(p.3)から:
左下の13が”袋状鉄斧”とされる資料。
(この写真からも朝日遺跡出土の「鍛造有肩袋状鉄斧」と同じ作りか
どうかは判断できない。)