2016年3月2日の『enonaiehon』(「まきおきし 石田のわせの たねならば…」の歌 - enonaiehon (hatenadiary.jp) )で、「真観」なる人の次の歌を示し、その歌人について、二人の可能性(①藤原光俊 あるいは ②真観)を考えていた。
しかし、昨日、図書館で改めて「石田 (いした)」について調べる中で、上記の歌の「真観」が、①勅選歌人の藤原光俊(1203~1276)であり、②真観(1110年代の園城寺僧)ではない、ということを知った。
加えてさらに、上記の歌が『題林愚抄』に採られるより以前に、『宝治百首』(1248年成立)や『夫木和歌抄』(1310年頃成立か)に採られていることも知った(知らないままでいるより、知り得たことを良しとするべきだけれど、”浅学”の身を思い知って少々気落ちした)。
なお、藤原光俊がなぜ「石田のわせ」…歌人相模の独自のものと感じられる歌語…を用いて歌を詠んだのか、という謎は依然として解けないままだ。
ともかくも、この【追記】を書きながら、『相模集』(11世紀半ば頃成立か)の「石田のわせ」の歌語が、藤原定家に学んだとされる藤原光俊(定家本『相模集』の奥書は1227年。光俊が定家に師事したのは1230年前後とされている)の眼にとまった可能性に想いを残し…なぜ眼にとまったのか?についても、謎のままであるけれど…気を取り直している。
【追記の再追記】
まだ十分に理解できていない段階ではあるけれど、ここで新たに追記を重ねることになってしまった。
今日(2月21日)、図書館で『和歌の歌枕地名大辞典』(吉原栄徳 おうふう 2008年)・『新編国歌大観』などを確認して新たに分かったことは次の通り。
*『宝治百首』944の歌の「石田」の読みは「いはた」とされていること。
*『題林愚抄』2254の歌の「石田」の読みは「いした」とされていること。
* なお2月22日、日文研「和歌データベース」で確認したことを、①・②として赤字で加えた(『題林愚抄』についてはデータ化されていないために確認できなかった)。
① 日文研「和歌データベース」の「宝治百首(宝治御百首)によれば、944 の歌の「石田」の読みは「いした」とされていること。
② 日文研「和歌データベース」の「夫木抄(夫木和歌抄)」によれば、2565 の歌の「石田」の読みは「いした」とされていること。
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① 00944 [詞書] 早苗 未入力 真観 (xxx)
まきおきし石田のわせの種なれは外にまたしき早苗とるなり
まきおきし-いしたのわせの-たねなれは-ほかにまたしき-さなへとるなり
② 02565 光俊 (416)
まきおきし-いしたのわせの-たねなれは-ほかにまたしき-さなへとるなり
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真観(藤原光俊)は果たしてどちらの読みで歌を詠んだのだろう…。
何も確かなことが分からない…そんな地点に戻ってしまった。