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私の第三十四夜をつづります。

「まきおきし 石田のわせの たねならば…」の歌

~『相模集』(『相模集全釈』)から~

 

78  雨により 石田のわせも 刈りほさで くたしはてつる ころの袖かな   相模 

 

~『題林愚抄』第六 夏部中(『新編国歌大観』)から~

 

2254 まきおきし 石田のわせの たねなれば ほかにまだしき さなへとるなり  真観 

 

15世紀中頃に成立したという『題林愚抄』に【註1】、「石田のわせ」の言葉を用いた歌が収録されていた。とても意外に感じた。素人の推測ながら、「石田のわせ」という言葉は、歌人相模がごく私的に用いたもので、他の用例はないのだろうと思っていたからだ。
【註1】(追記:2023年2月18日)
『題林愚抄』(15世紀中頃成立)以前に、『宝治百首』(1248年成立)の944の歌として「まきおきし 石田のわせの 種なれば 外にまだしき 早苗とるなり   真観」
が採られていた。

 

「石田のわせ」は、「石田」の地と係わる「わせ」の農作業を前提とする言葉で、かなり特殊なもの、という印象だった。その「石田のわせ」という言葉が、相模と真観の歌で用いられたのは偶然の一致なのだろうかと疑問に感じ、ウロウロと思いめぐらした。
そのなかで、「石田」は各地に見られる地名であり、その各地の「石田」で「わせ」の農作業が普通に行われていて、相模も真観も、それぞれ別の「石田のわせ」を歌ったのかもしれない、と思った。
また、「石田のわせ」が歌枕のように用いられた時期があったと仮定し、その実際の用例として残ったものが、相模と真観の歌のみだった、と苦しまぎれの想像もしてみた。

 

そして2254の歌を詠んだ真観とはどのような人か、また2254の歌は何を歌っているのか、という疑問もあった。次々に浮かんでくる「はてな?」について思いめぐらしたことは次の通りだ。
 
≪「石田のわせ」という言葉について≫
  1. 真観が、「石田のわせ」(『相模集』78)の用例を知っていて、あえて自分の歌(『題林愚抄』2254)に採り入れてみたか?(追記:【註1】の通り、『宝治百首』994の歌となる。)
  2. 真観が、「石田」の地や、その地の「わせ」(の「たね」や「さなへ」)について、とくに身近に感じる立場、またそれを歌に採り込むことで何かを表明する立場にあったか?
≪「真観」とは?≫
 
  ① 藤原(葉室)光俊 (1203年生~1276年没) 勅撰歌人。出家して「真観」。
  ② 真観(真勧)    園城寺僧。1110年代、修法・不動法などの活動。

 

11世紀造営の「石田殿」が園城寺北郊にあった可能性を考えると、②の「真観」と「石田」とが結びつきそうに思ったが、『題林愚抄』の歌人としては、①の「真観」が妥当のように思う。(追記:【註1】の通り、私が愚かにもあれやこれや考えるまでもなく、『宝治百首』994の歌、つまり①の藤原光俊の歌であり、②の可能性は無くなった。
 なお、次の【補記】は意味をなさなくなったが、削除しないでこのまま残すこととした。私の反省のために…。)
【補記:その後、文化庁の「文化遺産オンライン」のなかで、「私家集」(重要文化財)についての解説文として次の記述があった。
「…③真観本(三井寺本)は真観(一二〇三 - 七六)書写『範永朝臣集』等と三井寺関係僧の歌書である。とくに真観(葉室光俊)本は、真観と為家が勅撰集『続古今和歌集』(一一番目)の同じ撰者として歌壇で争った人物関係書である。真観の子定円が三井寺僧であったことにより、三井寺の理覚院に伝えられた。室町時代後期、理覚院は冷泉為広の子・応猷が院主のときに廃絶した。法統は聖護院に受け継がれたが、歌書類と荘園は冷泉家に収納された(『冷泉家古文書』理覚院関係文書)。…」
 これによれば、真観の子に三井寺僧・定円がいることは確かなように思われる。】
 
以上の通り、「石田のわせ」の周辺でウロウロするだけで、今は何も分からないままだ。今後、歌人相模の歌と真観の歌に用いられた「石田のわせ」の意味に、もっと近づくことができれば嬉しい(それが歌人相模に近づくことになるとは限らないのだけれど)。