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私の第三十四夜をつづります。

2016.2.28

 27日、藤沢で『蝶々夫人』を観た。舞台で観る初めての『蝶々夫人』。そのキャストのすべてが日本人だった。オペラの世界にしだいに入り込みながらも、どこか”新派の舞台というもの”を観ているような気持ちになった(新派の舞台こそ、観た経験はないのだけれど)。
 不思議な経験だった。美しい声や旋律、ドラマティックな展開に心奪われて…というよりも、たびたび音楽から醒めて、脈絡なく雑念がよぎってしまうという経験。
 20世紀初頭のイタリアオペラである『蝶々夫人』。眼の前の舞台のなかで、日本文化のイメージや、さらには日本とアメリカとの因縁的とも思えるような係わり方のイメージが鮮やかに浮き彫りにされ、展開してゆく。そのステレオタイプとも言えるイメージが、『蝶々夫人』を初めて通しで観た私の頭に雑念をよぎらせたのだと思う(雑念のなかで、ダワーの『敗北を抱きしめて』に対して感じた不思議な心のざわめきも思い出したりした)。
 ”去る男、残される女”という在り方は、現実世界でも虚構の作品世界でも普遍的なものだろうと思う(大江公資と歌人相模の関係、そして『舞姫』なども当てはまりそうだ)。ただ、『蝶々夫人』では、その在り方に国力や文化の異なる現実世界の国のイメージが重なって、より複雑な在り方を感じさせるものになっていると思う。
 オペラ『蝶々夫人』において脚色された日本とアメリカのイメージはどこから生まれてきたものなのだろう…21世紀の現在、こうした脚色的な関係イメージは過去のものになっているのだろうか…という疑問にたびたびさえぎられながら、華やかな舞台は終わった。
 20世紀初頭の 『蝶々夫人』に描かれた世界が、過去の無知や偏見によるものでもなく、脚色のための脚色でもなく、日本人の、日本の文化の何かしらの本質をあっさりと単純化してつかみ取っているのだとしたら…そんな風なことを考えさせてしまう不思議なオペラだった。