enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

「土屋三郎宗遠公の木像」の写真を見て。(追記:3月27日付 enonaiehon:”「土屋宗遠公の木像」はすでに土屋に!”)

 

春の土屋から帰ったあと、図書館に出かけた。
野鳥観察会の帰り、久しぶりに土屋の遠藤原を歩き、遠原古墳・駒ヶ滝古墳にも立ち寄った。そして、それらの古墳近くにあるはずの”駒ヶ滝”を訪ねたいと思い、その詳しい位置を調べに出かけたのだった。

その詳しい位置は『土屋郷土史』(ささりんどうクラブ 1999年)のなかの手書きの地図に示されていた(地元の方々が郷土の自然や歴史・文化などについてまとめ上げた素晴らしい冊子だった)。

分厚い冊子の巻末には古いモノクロ写真も数多く載せられていて、”駒ヶ滝”の写真もあった。思った以上に滝らしい姿に胸が躍った。

続いて目に留まったのは「土屋三郎宗遠公の木像」というネームがついた写真だった。

ネームから”土屋宗遠の姿をうつした肖像彫刻”と解釈して良いのかどうか、正確なところは分からなかったが、『おや?』と思った。

まっ先に抱いた印象が、『何だか、あの熱海市伊豆山神社や大磯町・旧高麗寺の神像群の雰囲気に似ている…?』というものだったのだ。

伊豆山権現立像伊豆山神社や旧高麗寺ゆかりの男神立像(高来神社)も、やはり烏帽子をかむり、袴をはき、立ち襟と広い袖をもったゆるやかな衣をつけて、その上に袈裟を掛けた姿であり、写真の木像が、それらの神像たちのシルエットと重なるように感じたのだ。

『土屋郷土史』の本文を読むと、そのごく小さな木像は、かつて土屋の正蔵院に存在したもので、現在は所在不明のままであるらしかった。
(この事実を知って落胆した。伊豆山神社や旧高麗寺(高来神社)の神像群に関心を持つ人ならば、その木像にも関心を抱くはずだろうに、と思った。)

家に帰り、その木像の衣の形(古い写真からは、ぼんやりとしたラインしか読み取れないのだけれど)伊豆山神社・旧高麗寺(高来神社)の神像群と比べてみた。
すると、その木像の衣は、”浄衣(じょうえ)という潔斎に用いられる服に似たもので、肩のあたりの様子が、伊豆山神社や旧高麗寺(高来神社)の神像群とは異なるように見受けられた。

また、袈裟の掛け方がもっとも似ているものは、「伊豆山権現立像」(銅造・像高93㎝・室町時代 1392年)であるように感じた。

平塚の土屋に、12世紀の武将・土屋宗遠にゆかりのある木彫像がこうした形で造像されていたのか…。

今の私は(いつものように、無知のままに自由に)、伊豆山・大磯の神像群に共通する”袍に袈裟”という様式にのみ注目し、その共通性をそのまま土屋の木像に重ねて、何か造像の系譜上のつながりがあるのでは?というような妄想を広げつつある。

伊豆山~大磯~平塚(土屋)の地域に、”袍に袈裟”というスタイルをもった造像が行われたこと…それは何を物語っているのか…?

春の空に、妄想の翼は自由に羽ばたくのだった。

 

 

~「土屋三郎宗遠公の木像」とされるもののイメージ~
【『土屋郷土史』(ささりんどうクラブ 1999年)P.377に掲載された写真をもとに描画】

*下手な描画のために、写真の木像の丁寧な作りの印象を伝えることができない。
像高20㎝ほどであるはずなのに、全体の印象は温和かつ重厚なもので、すっきりと調和がとれているように感じる。容貌は、俳優の前田吟さんが年齢を重ねたようなイメージだろうか? 源実朝が『金槐和歌集』のなかで「相州土屋といふ所に年九十にあまれるくちほふしあり、おのづからきたる」として詠んだ最晩年の土屋宗遠の姿ではなく、まだ活力を残していた時期の面影を伝える像なのだろうか?

 

《参考》
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・土屋三郎宗遠像(立像)
 当寺(註:正蔵院)には、「土屋三郎宗遠像」と伝えられる木像が安置されていましたが、現在は存在しません。
 昭和25年から30年代にかけての、市文化財保護調査活動以降から存在しないといわれています。現在はどこに安置されているか不明です。
 この木像は、僧形(そうぎょう)姿で、宗遠が出家した後の姿を表したものと思われます。制作時期・製作者等は不明です(木像の僧形姿・高さ約20㎝)
 土屋三郎宗遠の人柄を知るうえで、芳盛寺に安置される土屋三郎宗遠の持念仏〔宗遠の守本尊(秘仏阿弥陀如来」)〕とともに、貴重なもののひとつです。
 なお、僧形(そうぎょう)とは、武士等が仏門に入り、法衣を着けた姿を言い、鎌倉時代の武将土屋宗遠の像といわれる木彫りは、水平に衣を着けています。
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(『土屋郷土史(ささりんどうクラブ 1999年)P.99から抜粋・引用)