enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

いつまでも土屋の里で。

 

 

8日朝、雨の中を駅からバスに乗り、土屋に向かった。
(待ちに待った日…”土屋三郎宗遠公”にいよいよお目にかかれる日…あれやこれやと思い描き、熟睡できないまま朝を迎えたのだった。)

大勢の学生さんたちを載せた”満員バス”は、渋滞した街なかを走るのに30分近くかかった。

目抜き通りを抜けると車の流れが速くなってホッとする…大丈夫、約束の時間に間に合うはずだ。

バスが高校前…大昔の私はここまで自転車で通っていた…の停留所に着くと、学生さんのほとんどが降りてゆき、あとは土屋まで金目川沿いに一直線だった。

目的地のバス停で降りる。
どうやら雨も上がり、明るい気持ちになった瞬間、肝心の地図を置いてきたことに気がつく(どうしよう…お寺のおよその位置しか頭に入っていない…)

人通りのない朝の通りで運よく出会った方々に教えていただき、何とか大乗院にたどりく。
(帰宅して地図で確かめると、宗遠公を弔う大乗院は、北の金目川と南の座禅川にはさまれた丘陵上に建ち、その南斜面を少し下った一角に土屋氏の一族がひっそりと眠っているのだった。)

ドキドキしながら大乗院の境内に入ってゆく。
「土屋三郎宗遠公遺跡保存会」の方々だろうか、すでに玄関へと向かわれているところだった。今日は私一人だけが部外者なのだった。

玄関で身を小さくして畏まっていると、じきにご住職がいらっしゃり、本堂にあがらせていただく。

本堂は荘厳具のきらびやかな光に満たされていて、そして仏様の前には、あの「土屋三郎宗遠公」の木像を納めた小さなお厨子が置かれていたのだった。

お像を管理されている正蔵院さんなど、その場に参集された方々は、私のような闖入者にも温かく接してくださった。そして、郷土の貴重なお像を間近に拝見することが叶った。
(しかも私の厚かましい写真撮影の願いまでも聞き届けてくださったのだった。みなさん、本当にありがとうございました。)

今春、このお像の存在を知ってから、私の頭の中には妄想の問いかけが渦巻くようになっていった。

といっても、私のような素人が実際にお像を拝見しても、何が分かるわけでもない。造像年代なども、まったく見当もつかない南北朝? いや江戸時代? もしや明治期だったりするだろうか? などなど…)
何のためにお邪魔して拝見させていただいているのだろう…と申し訳ない気持ちになっていった。

それでも、その小さなお像に、現実にこうして土屋で暮らしている人々を一つの場に呼び寄せ、まとめ直す磁力が備わっていることは感じ取った。

お堂のなかで、確かに、私の気持ちは変化していったのだと思う。

『宗遠公の袈裟を懸けた姿には、伊豆山神社や高来神社の神像群と共通する歴史的な背景があるのだろうか? いったい、それはどういうものなのだろうか?』

大乗院を訪ねる前のそんな妄想の渦巻きも、土屋の人々の中に混じってお経を聴くうちに、なぜか少しずつ遠くに退いていくようだった。

本堂でお経が上げられたあと、人々はゆっくりと土屋一族の墓所へと向かい、五輪塔の前にお花を飾り、新しい卒塔婆を立て、お参りするのだった。
五輪塔が並ぶ仄暗い墓所の一段下には、館跡とされる平らな明るい土地が見渡せる。墓前にお線香をあげて語り合う皆さんの表情はやわらかだった。

その道すがら、一人の方が「宗遠公はすごい人だったと思う。あの実朝が歌に詠んで、それが残っているんだから…」と感慨深くつぶやかれた。

『確かに…』と思った。

 

土屋の里で守られてきた宗遠公の小さなお像の由来が、いつの日か少しでも明らかになったなら、きっと土屋の人々は嬉しいことだろうなぁ…。
そして、私の妄想の問いかけなど、結局は部外者の小さな好奇心でしかないのだなぁ…。
そんなふうに思うようになっていた。

これまでの『何か、私にでも分かることはないのだろうか?』といった、身の程知らずの貪欲な気持ちが、そんなふうに変わっていったことを、今、我ながら不思議に感じているのだ。

 

5月8日の大乗院

 

撮影させていただいた「土屋三郎宗遠公」の木像

 

 

このところの雨で水かさの増した金目川(土屋橋から)