enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

希望の無い未来?

 

今朝、朝刊のコラムを読み、そういえば私も同じような違和感をもっていたことに気がついた。

そのコラムでは、ほぼ死語であるような「同志国」という言葉が、今さらのように政治の場で闊歩しはじめていることへの不気味さが語られていた。

そして、その不気味さに似た“厭な感触”を、昨日は「チャットGPT」という存在に感じたことも思い出した。

それらの不気味さは、人間が生み出し、利用し、管理している(はずの)ものが、いつのまにかひとりでに(あたかも意思を持つかのように)、人間そのものと、その社会に深く影響し、時代の流れを突き動かしてゆくことの不気味さなのだろうと思う。

人間の意思のもとに生まれ、「いつのまにかひとりでに」「管理の及ばない」領域へうごめき始めるものへの不安。そういうものを前提とせざるを得ない社会に私たちは生きているのだと、改めて知らされる。

言葉もITも、人々は生まれ落ちた瞬間から、それらを”肉体化”して生きて行かなければならない。私たちの”脳”こそが、そうした社会を欲し続けている。

そして、「同志国」の言葉が息を吹き返した先に形成される世界や、「チャットGPT」を”肉体化”した人々を想像し、かろうじて不気味に感じるのもまた、私たちの”脳”であるのだ。

でも、そのような脳の機能はしかるべく退化し、淘汰されてゆくのだろう。
はたして、脳が脳を制御できなくなった先の未来には、おそらく、国家やら市民社会やら、私たちが慣れ親しんできた世界は、もはや存在しないような気がする…新聞のコラムから希望の無い未来を妄想してしまった朝。