enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2018.5.7

 ベランダのスミレ、クリスマスローズが咲き果てた。いつのまにか、虚しい姿になった。それでも、ただ虚しいだけの私と違って、花たちはひっそり実を結んでいる。そして、限られた貧しい土のなかできちんと次の季節の準備をしているに違いなかった。

 午後からは雨が降るようだった。洗濯物を取り込み、近くの病院に出かける。待合室を見渡すと、思ったより席が埋まっていた。
 隣の人が激しい咳をしていた。半月前の私とそっくり同じような音がする咳。きっと、家でも、腹筋や胸が痛くなるほど、頭に響くほど、全身の力をふり絞って厄介な気管支と闘っているに違いない。なかには、長椅子に横になって順番を待つ若い男性もいるのだった。

 読みかけの『椿の海の記』を開く。本当に他の本と同じなのに…白い紙に黒い文字が印刷されているだけなのに…それなのにまるで違う。まるで違う、ということだけは、はっきり分かる。
 濃密な記憶を蓄えた石牟礼さんの魔的な言葉と言葉遣いが、私たちが知っている見慣れた文字に、まったく別の新しい意味や力を与え続ける。石牟礼さんの世界が石牟礼さんの言葉で翻訳されて、私が見たこともない世界がそこに立ち現れる。石牟礼さんの明るく広く深く、それでいて密に閉ざされた世界に迷い込んでゆく。

 私の受付番号が呼ばれ、短い診察を受け、外に出る。細い雨が降りはじめていた。見上げると空はまだ明るい。一つ仕事を終えたような気持ちになった。それは、処方された薬と同じように、私に必要な薬。

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薬局近くの道ばたの花(北斗七星の形に並ぶ?):ニワセキショウ(庭石菖)という名前のようだ。砂利の隙間に咲きながら、手毬飴のような艶やかな実を結んでいる。