enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

海に行く。

この数日、家事から解放された。一昨夜も昨夜も…何に疲れたのか…良く眠った。

一人で過ごす空間…。
時間と意識は、ゆっくりだったり、あっという間だったり、いつもよりさらに、とりとめなく流れてゆく。

20世紀半ばに生まれ、70年の月日が流れたのだと、つらつら思う。

その間、過去の戦争、他国の戦争は、今思えば、ずいぶんと身近なものであったのに、遠いできごととして生きてきた。
東日本大震災原発事故は、東日本に生きる者として、衝撃と哀しみと怖れのなかで過ごしたけれど、個人として現実的な”傷”を負うことはなかった。

しかし、いつからか、自分の残された時間に何か不吉なものを感じるようになった。
2010年代…何かが底から壊れはじめている予感・不安が生まれ、今も続いている。

日々、報道あるいはネット空間で、次から次へと吐き出され、消費され、“ごみ”のように積もってゆく”言論の無意味な応酬の山”に蝕まれるようになったからだろうか。

この社会で大きな”地殻変動”が進んでいるにしても、人々の生きる意味は蝕まれてはならない…。

とりとめのない気持ちを切り替えようと、外に出た。

11日の夕方の空気は驚くほど気持ちが良かった。

海に行くつもりで外に出たわけでもないのに、空に広がった雲を見たとたん、足がひとりでに海に向かってしまった。

そうだった。
この波打ち際に来ればよかったのだ。

ここには賢しらに語ろうとする人々もいない。
愚かなふるまいへと衝き動かされる権力者もいない。

この波打ち際に来ればよいのだった。

ザッブーン、ザザザァー…繰り返される往復。とどまることのない運動。その無意味な波のふるまいの何と心地よいことか。

こうして、死ぬまで生きるか。