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私の第三十四夜をつづります。

乙訓寺の仏様。

 

安祥寺の十一面観音様を訪ねたあと、JR長岡京駅で降り、バスで乙訓寺へ向かった。
乙訓寺に着くと、再び小雨に見舞われた。
(境内で出会った方に会釈をすると、ゆるやかな声で「よう おまいりですぅ」と返された。やはり、京都なのだなぁ…と感じ入る。)

乙訓(おとくに)寺の十一面観音様について、チラシには「文永5年(1268)に制作された」とあった。
(帰宅後に調べると、文永5年はクビライの国書と高麗国王元宗国書が朝廷に届いた年で、国家的に外交上の決断を迫られた時期にあたっている。この仏様の造立者は、この年、どのような危機的事態からの救済を願って「一日造立仏」の制作を思い立ったのだろうか。)

乙訓寺観音堂の観音様も私一人で拝した。
まず、小柄で引きしまった造形…との印象を持った。そして、そのアイラインでくっきりとした白い眼、仄かに赤い唇は、どこか異国の彩色像のようにも感じられた。さらには、何かしらの怒りを秘めて凝視している視線であるようにも感じた。
そうした印象が中世以降の仏様に見られる特徴であるのかどうか、素人の私には分からない。ただ、安祥寺のお像とはまったく異なった十一面観音立像の在り方に、「一日造立仏」という特別な制作条件に加えて、時代や仏師の違い、人々が求める形の違いが大きく係わっていることを強く実感した。

続いて、観音堂の隣の毘沙門堂にお邪魔する。
美しい毘沙門天様はお堂の中のお蔵のような厨子に住まわれていた。
小柄な体に精緻な装飾の衣を華やかにまとい、眉をひそめ、唇を少し開いて何かつぶやくような表情をしている。
その姿は、私がこれまで目にしてきた毘沙門天像の、堂々と未来を力強く見据える前向きな印象と違って、何となく気弱そうにも感じられた(チラシには「憂いを帯びた表情」とあった)
そのせいか、毘沙門天様がたまたま軽く踏みつけてしまったような邪鬼たちも、何となく遊んでいるかのような顔つきなのだった。

 

乙訓寺観音堂

 

乙訓寺毘沙門堂

 

乙訓寺でいただいたチラシと安祥寺のチケット

 

乙訓寺の拝観券