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私の第三十四夜をつづります。

浄楽寺:闇と蝋燭の空間で。

 

19日朝、横須賀の浄楽寺に向かった。

2018年4月に初めて拝観してからすでに五年が経った。
当時、阿弥陀様の特徴的な視線が”彫眼”から発していると知って印象深く感じたことなどを思い出す。そして、今日はどのようなお顔をしているのだろうかと想像する。

境内に着くと、すでに御開帳に集まった人々で賑わっていた。
小さなお堂裏の収蔵庫に向かい、拝観者の列に並ぶ。

思えば、この浄楽寺や伊豆の願成就院に運慶作の五躯の像がならび残ることに、当時の三浦一族・北条一族の宗教的・精神的熱量、政治的活力の大きさを感じないではいられない。また、12世紀末の世界を生きていた彼らが寺院建立・仏像造立に傾けたエネルギーの根源は何なのか?を問わずにはいられない。

いよいよ拝観の順番が来て、密室のような収蔵庫内へと進む。
仏様たちは変わることなく、静かにならんでいらっしゃった。

阿弥陀様の静かな視線は相変わらず、世界の中心を遠く見つめながらも、その視界の端に私たち人間の気配を感じ取っていらっしゃるようにも思えた。

しばらくすると、庫内の照明が消え、周囲は暗闇と静寂の空間に転じた。

数本の蝋燭のゆらめく灯りだけが、阿弥陀様の膝のあたりの金色の衣文をぼんやりと浮かび上がらせている(仏体に施される金色の効果というものを暗闇のなかで初めて実感した)

息をひそめて、眼を凝らすうちに、しだいに阿弥陀様のお顔の当たりの暗闇から、あの特徴的な眼が浮き上がってくる。
その瞬間、なぜか心が震えた。
(宗教・信仰の世界からほど遠い私の中に、突如、不思議な感情が湧きあがってきて戸惑った。法隆寺百済観音像という存在への感動とも異なっていたと思う。私はいったい、この阿弥陀様の何に感動しているのだろう? この心の震えは仏像芸術に内在する何かに由来するのだろうか? それとも単に、暗闇と蝋燭によるイル―ジョンなのだろうか? 5年前の前回は、あのような心のおののきを経験したわけではなかった…と思い出したのは、帰りの電車のなかだった。いまだ、今回の感情が何に由来するのか、分からないままだ。)

今、浄楽寺の葉書(「阿弥陀如来坐像および両脇侍立像」写真:六田知弘)を見ながら、仏像という存在は、仄暗いお堂のなかでこそ、強くその内的な力を発するものなのだろうな…と思っている。

 

 

御開帳の浄楽寺(2023年10月19日)

 

左:浄楽寺御開帳のチラシと葉書      右:浄楽寺御開帳のチラシとお饅頭

【追記】
浄楽寺でいただいたチラシのなかの阿弥陀様は、お顔の眼差しや頬の張りのふくらみが一層若々しい印象に捉えられていて嬉しい。境内で買い求めた「運慶饅頭」も美味しくいただいた。(^^♪