今回、次の表をまとめた際に、高座郡家・七堂伽藍跡と平塚市内での皇朝十二銭の出土の背景に、当該地域(高座郡や大住郡)の大領クラスの人々の活動があるのでは?と想像した。
【個人的table]:平塚市および茅ヶ崎市(「高座郡家」周辺)から出土した皇朝十二銭】(再掲)
<私の当初の想像>
①高座郡家・七堂伽藍跡・北B遺跡の皇朝十二銭(初鋳年が8c末~9c初頭の「隆平永宝」・「「冨寿神宝」が多く出土する)をともなう祭祀の主体を高座郡家と想定。その祭祀活動が相模国府域内より先行する可能性。
②真田・北金目遺跡群(大住郡片岡郷と余綾郡金目郷の活動が重なる地域?)での皇朝十二銭をともなう祭祀の主体を大住郡家と想定。その祭祀活動が相模国府域内より先行する可能性。
こうした可能性に係わる出土遺構年代について、②の場合は『真田・北金目遺跡群』(2013年 平塚市博物館 平塚市社会教育課)によると次の通りだった。
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*708年「和同開珎」 4区SC006 :8c後葉~9c後葉頃
*765年「神功開宝」 2区SI022(3点) :9c前葉
*796年「隆平永宝」 2区SI028 :9c前葉
*796年「隆平永宝」 55B2区SI0015 :10c前葉
*818年「冨寿神宝」 55A1区遺構外 :(不明)
*835年「承和昌宝」 34A区SI083 :10c前葉
*848年「長年大宝」 18A区SI003 :10c前葉
*( 不明 ) 2区SI29 :(不明)
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このように、真田・北金目遺跡群での皇朝十二銭の出土遺構年代は9c前葉・10c前葉が中心であった。つまり、皇朝十二銭をともなう祭祀活動の年代を初鋳年から類推することには限界があるのだった。
同様に茅ケ崎市(高座郡家・七堂伽藍跡・北B遺跡)についても、初鋳年を根拠に、祭祀活動が相模国府域に先行すると見なすことはできないのだろう。
ただ、真田・北金目遺跡群でなぜ「神功開宝」・「隆平永宝」の出土が多いのか、高座郡家周辺域でなぜ「隆平永宝」」が多いのか、相模国府域内ではなぜ「冨寿神宝」・「鐃益神宝」が多いのだろうか。
(単に、その種類の皇朝十二銭が多く存在した時期に祭祀活動が行われたに過ぎないのだろうか?)
もっと別の手がかりはないだろうか…?