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私の第三十四夜をつづります。

メモ(2):真田・北金目遺跡群と構之内遺跡の皇朝十二銭出土。

【個人的map:真田・北金目遺跡群】

<註>4区「高大長」墨書土器は、4区の西側に隣接する1区の出土資料と接合したもの。上図では”4区出土資料”として記載した。

 

【個人的map:構之内遺跡】

 

今回、皇朝十二銭の出土にまつわる私の妄想は、高座郡家を経て真田・北金目遺跡群から、さらに相模国府域の構之内遺跡へと広がっていった。

妄想が広がったきっかけは、真田・北金目遺跡群の調査報告書だった。
図書館で、その報告書を眺めていて、皇朝十二銭「和同開珎」や銅鈴、「酒」墨書土器などが出土した4区6号水場状遺構【註】から、「春」墨書土器が出土していることを知ったのだ。

まさか真田・北金目遺跡群の水場状遺構から「春」墨書土器が出ていたとは…。
皇朝十二銭が多く出土する真田・北金目遺跡群での思いがけない「春」墨書土器の出現だった。)


「春」墨書土器は、かつての記事 相模国庁所在地の空白(1) - enonaiehon (hatenadiary.jp) 以降、”宿題”としてホコリをかぶっていた。
当時は、”春時祭田“の系譜につながるような祭祀が、時代を下った平安時代に構之内遺跡で行われ、国府の水辺で「春」という季節、農耕の季節の到来をことほぎ、田の神様への祈りを奉げていたのではないか…そして、その祭祀の主催者は在地の有力者ではないだろうか?などと妄想していたように思う。
(かつて、こうした「春」墨書土器の謎に少しでも近づければと、国会図書館にも出かけたけれど、結局「春」が季節名なのか・氏名なのか・地名なのか・吉祥文字なのかの答えにすらたどりつけなかった。
ちなみに、「春」の連想の一つとして、相模国の9c末の権守  ”源 平” の兄弟 ”春 尋” がいるけれど…もちろん「春」墨書土器につながるものではない…嵯峨源氏にまつわるエピソードの一つとして興味深いものだ。)

そして今回、新たな「春」墨書土器の出現に刺激され、恣意的な視点で【個人的map:構之内遺跡】を作ってみた。

結果、構之内遺跡については、”大住郡大領・壬生氏に係る遺跡”では?という素人の雑な妄想へとたどりついた。
(*墨書土器「生」・「王」や焼印「王」は、「壬」と「生」の文字をデザイン化した「王」であり「生」なのでは?という妄想。
*さらには、谷川を隔てた南東側の神明久保遺跡出土の「王区」墨書土器についても、「王田」と読める可能性のもとに、”壬生氏の田”を意味するのでは?という妄想。
*とはいえ、焼印「王」は「三」である可能性がある。
*「生」についても、他の文字と組み合わせて吉祥句とされることが多いようなので、単に吉祥文字の意味合いであるのかもしれない。
また、武蔵国男衾大領・壬生吉志福正や下野国都賀郡出身の円仁などの足元で、「生」・「王」といった墨書土器が有意な数として出土しているのか?といったことも、まだ何も調べてはいない。


最後に、『平塚市史 11下 別編考古(2)』などをベースに、構之内遺跡の様相を大まかにまとめると次のようになる。

◎構之内遺跡を通って、推定古代東海道(谷川〔やがわ〕)の北側を東西方向に走ること
◎構之内遺跡第1地区A地点では、
  南北棟の掘立柱建物群が(中庭のような空閑地をはさんで)東・西に展開すること
  *「春」墨書土器をともなう井戸祭祀が想定され、狻猊鏡・皇朝十二銭などの特殊遺物、鉄製鍬先などが出土すること
◎構之内遺跡第1地区B地点(A地点の南東、谷川〔やがわ〕沿い)は、生産地(乾田式水田)と想定されること
◎構之内遺跡第2地区では人面墨書土器が出土し、「国司の経済的基盤の一部」を担う畑作地と想定されること
◎構之内遺跡第3地区では、推定古代東海道をはさんで集落が展開し、銅印・焼印・皇朝十二銭などの特殊遺物が出土すること

これらの様相は、構之内遺跡が相模国府域内において重要な性格をもつことを示しているけれど、その明確な位置づけは、いまだなされていないように思う。
(明石 新氏は、この構之内遺跡について『平塚市史 11下 別編考古(2)』で「今後は、道路に沿った遺跡がどのような性格をもつかを見極める時期にきていると考える」と書かれている。約20年後の今、研究者による”見極め”が必要な遺跡であることを改めて強く感じている。)

 

【註】
真田・北金目遺跡群の4区1号水場状遺構からは「高大長」墨書土器(須恵器坏)が出土している(底部外面の墨書文字の配置は次の通り)

「  

     

      」

そして、この「高大長」墨書土器が出土した4区1号水場状遺構は、1区4号水場状遺構の北~東隣に位置する。
報告書を読んで私が理解したのは、次のようなことだった。
________________

*2片に割れた「高大長」墨書土器の1片が、1区4号水場状遺構からの自然流路によって、他の遺物とともに4区1号水場状遺構へと流れ込んだ。
*1区4号水場状遺構に残った1片と4区1号水場状遺構に流れ込んだ1片とが接合され、報告書に「高大長」墨書土器として記載された。
________________

以上から、4区1号水場状遺構の墨書土器の多くが1区4号水場状遺構で行われた祭祀に使われたのでは?と推測した。

なお、「春」墨書土器については、同じ4区でも6号水場状遺構…つまり、1区4号水場状遺構~4区1号水場状遺構とはつながらない別の水場遺構…から出土している。

現時点では、「春」墨書土器や「高大長」墨書土器を用いた祭祀の主体者、ひいては、相模国府域・構之内遺跡での井戸祭祀の主体者を結びつける材料は見つかっていない。

一方で、これらの水場状遺構には、次のような墨書文字の共通性も見受けられる。

◆1区4号水場状遺構~4区1号水場状遺構と、4区6号水場状遺構との間で共通する墨書文字:「宅」・「田」・「井」・「万」

◆構之内遺跡の墨書文字が、真田・北金目遺跡群1区4号~4区1号水場状遺構や4区6号水場状遺構出土の墨書文字との間で共通するもの:
 *「山」と「川」は、1区4号水場状遺構と共通
 *「春」と「田」は、4区6号水場状遺構と共通
 *「田」は、1区4号~4区1号水場状遺構や4区6号水場状遺構と共通

ここで、一般的な墨書文字(「田」・「井」・「万」・「山」・「川」など)とは異なる「宅」墨書文字が何を意味するのか?という新たな疑問が生じるけれど、墨書文字「高大長」については、構之内遺跡の「春」墨書土器をヒントとして、現時点で次のような可能性を妄想している。
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◇一般的な吉祥句ではなく、「高〔座郡〕」・「大〔住郡〕」・「長〔官〕(郡の長官=大領)を組み合わせた墨書文字(「高 長」+「大 長」)である可能性
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おそらくこの「高大長」文字の謎が解ける日はやってきそうにないけれど、”素人の妄想は書き捨て”ということで、ここにメモ書きしてみた。