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私の第三十四夜をつづります。

「方𦊆」墨書土器と「保」・「大夫」刻書土器

 真田・北金目遺跡群展で、宮久保1区SG001出土の「方𦊆」墨書土器(8c中葉~後葉)を見ることができた。図録の解説では、「金目の一部が、当時は、「片𦊆」郷であった可能性」、「拠点的な祭祀場である「金目」郷で、「片𦊆」郷の人たちが祭祀をした可能性」が記されている。
 これまで、私も素人なりに、国府域の山王B遺跡第1地点出土の「𦊆」ヵとされる墨書土器とともに、真田・北金目遺跡群の「片𦊆」墨書土器の存在が気になっていた。もし、真田・北金目地域が余綾郡金目郷であるならば、遺跡群の祭祀場から「金目」(あるいは「金日」?)墨書土器も複数出土してもよさそうなものなのに…と。しかし、そのような墨書土器は今のところ1点も出ていない。
 少なくとも、8c中葉から後葉という相模国府成立期の宮久保では、余綾郡「金目」郷ではなく、大住郡「片𦊆」郷の人々が、郷名を記した須恵器・土師器墨書土器を用いて祭祀を行っていたことは確かのようだ。
 また、特別展と同時開催の文化財展で見た、坪ノ内遺跡第5地点SX02出土の「保」・「大夫」刻書土器(10c後半~11c前半)も、その年代観も含め、大変興味深いものに感じた。
 これらの刻書土器について、2013年3月発行の報告書では、「「保」は(略)この場合吉祥句の一つとして書かれたものではないかと考えられる。「大夫」は人名または役職名の意味を持つものであろう。出土状況から見て、官衙的意味合いのものではなく祭祀的な意味が強い遺構と思われる。」とされている。
 確かに特異な埋納状況は、官衙に伴う土器廃棄というものとは異なっているようだ。ただ、その出土位置が、南北両庇、5間×2間という大型の総柱建物(9c後半~10c前半)の南庇直下であることが、その廃絶した大型建物と係る官衙的祭祀の意味合いを持っているようにも感じられる。
 しかも、「大夫」が言葉通りに五位以上の地位を示すとすれば、祭祀主体者と国衙官衙との係わりが想定可能ではないだろうか。
 さらに、祭祀遺構をもし11c前半という年代で捉えるなら、三浦氏の祖とされる”三浦平大夫(三浦為通)”や相模国源頼義の時代にも重なっていく。そしてそれは、11世紀後半の相模国住人”権大夫為季”(1079年、押領使景平と合戦し殺害)が登場する、新しい時代の到来を予想させる刻書文字のようにも思えるのだ。つまり、11世紀代だからこその「大夫」刻書なのではないだろうか、と。
 また、吉祥句とされる「保」についても、突飛ではあるけれど、行政区域としての「保」の可能性はゼロなのだろうか…とも思う。
(「保」墨書土器の事例との一つとして、木曽郡木曽町(旧日影村)”「お玉の森遺跡”の住居址から、「大野保 政所」墨書土器〔灰釉陶器〕が出土し、その時期は11世紀前半とされているようだ。11世紀前半の相模国府域においても、すでに国衙領の一部が私領化され始めていた…そんな妄想も浮かんでくる特異な「保」刻書土器群だと思う。)
 今回の特別展・文化財展を見て、これまで、ぼんやりと気になり続けていた「方𦊆」墨書土器と「保」刻書土器が、新たに「大夫」刻書土器も加わったことで、再び一段と大きな謎になったことだけは確かなようだ。
 
「方𦊆」墨書土器…並べて展示されている須恵器「方𦊆」墨書土器の文字(体部外面)は肉眼ではとらえにくい。土師器のほうははっきりと読み取れる。筆達者が書いたものだろうか。
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