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私の第三十四夜をつづります。

浜辺の形

2012.5.22
 子供の頃、あんなに身近だった海、砂浜、そして浜辺のプール。小学生の私の夏休みの記憶は、揺らぐプールの水面の輝きと見上げる空のまぶしい光のなかにある。その浜辺の潮風、波の音から遠ざかって半世紀が過ぎた。再び海に足を向けるようになったきっかけは2007年9月の台風だった。激しかった嵐の跡を辿ろうと、友人と袖ヶ浜から大磯町の照ヶ崎海岸まで歩いた。その時、平塚の砂浜が昔とは大きく様変わりしていることを知った。照ヶ崎付近は嵐で砂浜が波に洗われて、本来の荒々しい岩の層がより広くむき出しになっているように見えた。波が砂を運び込んではまた砂を運び去る…その繰り返しが浜辺の形を日々変えていく。
 昨日、人々が金環食を観ようと集まった平塚海岸…次の金環食の機会には、この浜辺の形はどのような姿をしているのだろう。これからも浜は削られ続けていくのだろうか。手もとの明治期と昭和期、そして平成期の地図で、東海道線平塚駅と海岸線との間のおよその距離を確かめてみた。昭和14年修正測量と昭和29年修正測量の距離を1とすると、明治15年測量はおよそ0.91、平成期はおよそ0.99。単純で雑駁な比較では、浜辺の奥行きの変化を示すことはできないが、今、平塚海岸の砂浜の縮小が進んでいるのは確かだと思う。
 このことを踏まえると、古代にさかのぼり平安時代の浜辺の形や海沿いの道筋を想定することの難しさを思わずにいられない。
 
2007年の台風9号から数日後の大磯海岸①(2007年9月13日)
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2012年5月 
えぐられていたテトラポットの下端も埋まっていた。
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2007年の台風9号から数日後の大磯海岸②(2007年9月13日)
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2012年5月 
こちらも砂が戻って、コンクリートの壁に残った階段が埋まっている。子供の頃に遊びに来た大磯海岸は、文字通り、磯が大きく広がっていたように記憶している。もちろん西湘バイパスもコンクリートの防波堤も大きな漁港も無かった。昭和30年代にはまだ、奈良・平安時代に歌われた浜や磯の名残りがあったのかもしれない。
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