enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

”別世界”の海。

この3週間ほど、”自主隔離”に近い生活が続いていた。

日常の時間がよどんでくる。清らかな空気を胸いっぱいに吸い込みたい。

 

家族から、海の近くで桜が咲き始めていると聞き、それならばと海へ向かった。

海への道の途中、店先に植えられたローズマリーの花と葉に、ざわざわと手を触れる。
とがった強い香り…その香りをかぎたくて、触れないではいられない。

(よどんだ脳味噌はすぐさま覚醒し、『 ローズマリー ……  ♪ スカボローフェア ♪  ……  ♫ she once was a true love of mine ♫  ……  』と、連想の道筋をたどりはじめる。そして、『それにしても、”a true love of mine”とはどんなもの? 日本の言葉や表現で置き換えると何?』と、ふたたび脳味噌はよどんでゆく。)

 

確かに、海岸通りの歩道橋の下に、白くけむるようなサクラの姿があった。近づいて見上げると、止むことのない冷たい風に、やわらかな花びらや蕾を揺らし続けていた。

 

 

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3月24日のサクラ

 

浜辺からは大島、箱根、富士山が望めた。
凶々しさの一かけらも潜んでいなかった。
凶々しい現実とはつながっていない”別世界がそこにあった。

 

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f:id:vgeruda:20200324225611j:plain3月24日の海

 

【海岸への道で】

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巣上のトンビ(松林で):ここでも、日常の暮らしが?

 

赤い縁どりの若葉(石垣の上で):ただ成長するのみ、の姿?

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赤木俊夫さんの言葉。

今朝、朝食前に駅に向かう。『週刊文春』を買うためだ。たぶん、私にとって生まれて初めてのことだと思う。

グラビア頁を開く。

2018年3月7日のノートの写真だった。
赤木俊夫さんが、自ら人生を閉じる前に、他者に向けて訴えた言葉がそこに在った。
まさに”魂の叫び”だったのだと思う。
命をふりしぼるような言葉だったと思う。

「 手がふるえる. 怖い 

  命 大切な命 終止府(マゝ) 

そして2017年7月の手帳の写真。
7月7日小暑の欄には「 初蝉 」とある。
また欄外には「 7/19 梅雨開け 」と書き込まれ、大きく四角枠で囲まれている。
20日の欄には「(病気休暇)」、21日と22日の欄にかけても「(病気休暇)」の文字。
しかし、本文記事(相沢冬樹氏執筆)によれば、赤木さんは「結局、そのまま職場に戻ることはなかった。」

 

今日の参議院財務金融員会で、麻生財務大臣は、「近畿財務局の職員が」「自殺をされるということになった」「言葉も無く」と、原稿を読みあげる。
また、安倍総理大臣は、「真面目に職務に精励していた方が」「自ら命を絶たれ」「痛ましい出来事」「本当に胸が痛みます」「改ざんは二度とあってはならず」と取材に応じる。
両者とも、赤木俊夫さんの名を口にすることはなかった。
その淡々と”他人事”のように繰り出される言葉・・・そこには何もなかった。

浮かばれない。そう思った。
何も解決されていない。怒りとともにそう思った。

『赤木さん。私も自分の2017年の手帳を開いてみました。あなたと同じように、7月19日の欄に「梅雨明け」と書いていました。』

『赤木さん。私は2018年3月、16日と30日に国会前の集会に参加していました。27日の欄には「(佐川氏.証人喚問)」と記入しています。』

『赤木さん。あなたと同じ時代に生きていたことを確かめつつ、2020年3月18日の今からは、提訴の行方を見守ってゆこうと思っています。』

 

【過去の『enonaiehon』の記事から】
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2017-03-04  苛立つ。

数年前から、国会のネット中継を視聴することが多くなった。
このところ頻繁に質問を受けている財務省理財局長の答弁。
その一から十まで、納得がゆかない。
理財局長の答弁を構成している”土台”が理不尽であるがために、説得力を持ちようがないのだと思う。
理財局長はほとんど同じ答弁をすらすらと繰り返す。それだけに終始する。
質問者が聞きたいことの核心について、決して答えまいとする意思だけが、はっきりと伝わってくる。
理財局長の”誠意”が、国会中継を視聴している私たちのほうに向けられていないことだけは、はっきり分かる。
私たちのための答弁でないことだけは、はっきり分かる。
ネット画面上の理財局長の答弁に苛立つ。

*その後、彼の肩書きを修正した。いまだ、答弁するにあたっての彼のスタンスは変わっていない。

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2018-02-11  ”赤い靴”

10日に届いた朝刊・夕刊の一面 TOP には、それぞれ「森友交渉 新文書20件」・「黒田日銀総裁 続投へ」のタイトルが踊っていた。朝夕の紙面の背後には、ずぶずぶと引き込まれてゆく泥沼が広がっているように思えた。

そして、それらの記事とはかけ離れたこと…アンデルセンの童話『赤い靴』のことを思い出した。記事から漂う気配には、子どもの頃、初めて『赤い靴』を読んだ時に感じた”空恐ろしさ”と似たようなものがあったからだと思う。

前理財局長(現国税庁長官)も、現日銀総裁も現首相も、それぞれの”赤い靴”をはいているように見える。
そして、「長い白いころもを着た天使」は、彼らに「おどれるだけおどるのだ! おまえのすきなように。もっと、もっと、おどっていけ!」と言っているように見える。
彼らの振る舞いが、”赤い靴”に魅せられた少女カーレンの振る舞いに重なってくる。
 
「それでもまだカーレンは、おどりつづけました。いや、おどらずにはいられませんでした。」

それでも…いつか彼らにも”赤い靴”を脱ぐ時が訪れる。
その時、ずぶずぶとした泥沼から、どのような”異次元”の兆候が浮かびあがってくるのだろう。それはやはり”空恐ろしい”ものなのではないだろうか。 

f:id:vgeruda:20200322111502j:plain「赤い靴」の少女と天使(『アンデルセン童話集 絵のない絵本』 昭和28年 創元社 
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出歩かない間に。

 

家や街で。

出歩かない間に、図書館が休館になっていたりする。
出歩かない間に、在ったはずの家が消えていたり、松林の並びに自動販売機がピカピカと埋め込まれていたりする。

気がついていたことは、ベランダに射しこむ光が明るくなったこと、白いふわふわの蕾を隠していたクリスマスローズが、一番大きな蕾から花開き、そして雄蕊を散らしはじめたこと。

 

平塚の海辺で。

出歩かない間に、錆でボロボロに欠けていた歩道橋の補修工事が始まっていたりする。
出歩かない間に、控えめなハマダイコンが砂浜を彩っていたりする。

知っていたことは、富士山が真っ白なこと。
想像していたことは、海辺を楽しむ人たちの顔にマスクが無いこと。

 

そして、海が海であること。波が波であること。風が風であること。
そんなことを確かめ、励まされた3月13日。

 

f:id:vgeruda:20200313114139j:plain3月13日の富士山

 

f:id:vgeruda:20200313114733j:plain大きなカイト

 

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ハマダイコン

 

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カタバミたち

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アンダーコントロール

3月12日。
今日、友人から届いたメールには、『mi・ra・i・e つなごう・未来へ 出版で働くものだからこそ、できること(No.38 2020年3月10日)が添付されていた。

「あれから9年、アンダーコントロールの現実」と題された今号は、7名の方が執筆している。9年間にわたって届けられてきた小冊をスクロールしながら、その発行に係わる人たちの(出版で働くものだからこその)”意地”を改めて感じさせられた。

また、〔編集後記〕の末尾は、「原発事故などなかったかのように再稼働が進んでいます。…(中略)…ともすれば忘れがちな原発事故を思い返し、原発に依存し続けようとする現状に警鐘を鳴らします。忘れないことも私たちの課題です。」と締めくくられていた。

文中の「ともすれば忘れがちな原発事故」という言葉に、『この9年間、”アンダーコントロール”されて薄まったのは、私のなかの危機意識だったのかもしれない』と思った。

9年前のあの3月11日から15日まで、想像を超えた事態の展開を固唾を呑んで見守っていた…あの時の胸の震えのような、心が収縮するような痛みは、今も身体の記憶としてよみがえってくる。

しかし、この数年間、現政権の異様な振る舞いが強烈な”目くらまし”となって、そうした本能的な危機意識が薄まってしまったようだ。

現在、パンデミックという形で、ひたひたと人々の生活・人生を巻き込みつつある事態に対しても、今改めて本能的な危機意識を取り戻す必要があるのだと思う。

”アンダーコントロール”と、軽薄に語られた言葉が、いよいよ虚しく愚かしく響く2020年春。

だからこそ、私たちは、未来へ(mi・ra・i・e)向かって、そして見通しの利く未来にするべく、地道にしっかりと歩いてゆかなければならないのだ。

 

 

再びの草津④ ~白根神社と光泉寺で~

 

草津での二日目、宿から”西の河原”に出かける途中、白根神社光泉寺に立ち寄った。
昨年、初めて草津を訪れた際には、『(一人旅なら)寄ってみたいなぁ…』と見上げた場所だった。

二日目の朝は気温が低く、宿の周辺も靄がたちこめていた。
外に出ると、眼鏡がすぐに曇った。ベルツ通りから南に下り、湯畑に向かう。

凹地となっている湯畑に降りると、靄はもうもうと白さと濃さを増し、湯畑を見守るような白根神社光泉寺の高みにまで這いのぼっていた。
光泉寺の階段の途中でふり返ると、眼下の湯畑も人々の姿もミルク色の靄に埋もれ、もはや、音まで吸い込まれてしまっているように見えた。)

神社やお寺を囲む林のなかをゆっくり歩いた。
見かけた石像たちの表情に、素朴さ、愛らしさを感じた。

光泉寺では、友人のためにお守りを求め、また自分のために(?)”遅咲如来様”をお参りした(遅咲き…そもそも、蕾をもっていなければ、咲きようがないのだけれど)。

ふと思う。神社やお寺での自分の振る舞いは、あのミャンマーの人々とは、ずいぶん違うものではあるなぁと。

 

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白根神社

 

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苔むすお地蔵様(光泉寺で)

 

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魚籃観音様(光泉寺で)

 

f:id:vgeruda:20200302104417j:plain分厚い茅葺屋根の”遅咲如来様”(光泉寺釈迦堂)

 

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釈迦堂の蟇股?:
そのアンバランスな屋根だけでなく、蟇股?に施された邪鬼
を踏む青い顔の天部像?や白い法輪も、強い印象を残す。

 

 

 

 

 

 

2020年3月10日に。

 

明日は3月11日…あの東日本大震災から9年の時間が積み重なったのだ。
また、今日眼にしたツイートで、シリア内戦も9年に及ぶと知った。

その重過ぎる9年間の現実について、何もかかわらない自分がいる。


先日、突然、自分が緩慢な大きな動きで揺り動かされているような感覚があった。
地震か?』と思った。一瞬ではあったけれど、あの9年前の揺れにも似ているような感覚だった。
そして2020年の今、日々の現実のなかで進行する感染症蔓延の様相は、世界にとって緩慢な地球規模の地震のようなものでは?と思った。

この様相がこのまま収束してゆくのか、本震はこれから来るのか、誰も見通すことはできない。

9年たって、この2020年時点の自分、あるいは日本の姿を、どのような位置づけで思い出すのだろう?

また、その9年間はどのような時間として思い出されるのだろう?(生きていれば70代後半の私に、遠く問いかけている2020年3月10日の私がいる)。

 

【3月10日は私の父の誕生日であり、東京大空襲の日でもあり、そのことを思い出しつつ通り過ぎる日付だ。先の戦争で父や母がもし死んでいたならば、私は存在していない。そんなことも思ったりする3月10日なのだ。】

再びの草津③ ~カラマツ林や”西の河原”で~

f:id:vgeruda:20200303102448j:plain             足跡は途中で分かれて…?

 

宿のまわりにはカラマツ林が広がっていた。
二日目、宿からスタートする”午後の自然散策”に参加し、カラマツ林に向かった。
長靴に履きかえ、ガイドさんたちと一緒に雪道を歩く(ほとんど小学生の気分だ)。

残雪がまぶしい林のなかで、にぎやかに言葉を交わすのは私たちだけだ。

今は息をひそめている生き物たちの、過去の気配を探しながら歩く。
キラキラと輝く雪にも、木の肌にも、彼らのメッセージが隠れているのだった。

 

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朽ちた樹に残るキツツキの仕事跡

 

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木肌に残るクマの爪跡

 

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リスが松ボックリの種を食べた跡:
”森のエビフライ”という呼び名を教わり、みな、納得する。

 

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アカゲラ?の羽根:
あの姿の中に、水玉模様の羽根を持っていることを初めて知る。オシャレ!?

 

 

二日目と三日目、”西の河原”へ野鳥を探しに出かけた。
川から立ちのぼる湯煙の中で目を凝らし、首が痛くなるほど樹上を見上げ、ひたすら、鳥たちの啼き声、すばしこい動きを追いかける。

何もかも忘れてしまう天国のような(?)”西の河原”だった。

 

【”西の河原”で暮らす鳥たち】

f:id:vgeruda:20200302120021j:plainクロジ:
歩道を行き来していたけれど、近づく人を警戒し、道脇の茂みに隠れてしまう。枯れ葉と同じような地味な色。

 

f:id:vgeruda:20200302121719j:plainカシラダカ
ゴジュウカラと一緒に、地面をつつき歩くのに忙しい。いったい、そんなに美味しいものとは何? 

 

f:id:vgeruda:20200302121200j:plainゴジュウカラ
シジュウカラとの違いを教えてもらう。でも胸が写っていなかった。

 

f:id:vgeruda:20200303130611j:plainカルガモ
人の姿を見るや、公園の鳩のように近づいてくる…何かあげたくなるけれど。

 

f:id:vgeruda:20200303133651j:plainヒガラ:
いっときもジッとしていない。偶然の1枚。
〔”小柄”だったけれど、”コガラ”ではなく、”ヒガラ”なのでした。〕

 

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シジュウカラ
平塚でもよく見かけることができる小鳥は、君だけだったよ。