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私の第三十四夜をつづります。

”呪符木簡なるもの”にすがる2020年5月。

 

検察庁法改正案 森法相が答弁へ きょう衆院委員会 採決のかまえ」
朝日新聞 2020年5月15日 朝刊)
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15日の朝刊1面の記事を眼にして苛立つ。
午後の内閣委員会の中継をネット視聴して、一人虚しくヤジを飛ばすくらいか…と思うと、本当に情けない。何もできない。何もできないから苛立つ。

先日、”呪符木簡なるもの”を二枚作った。手のひらに載るほどの小さなお札の形になった。
当然、古代においての宗教的教義に基づくことなど、叶うわけもない。
ただ、それらしく「急々如律令」の文字を真似てみただけの”まやかしモノ”に過ぎない。
それでも、筆ペンで書いた文字は、記すそばから不気味に滲んだ。
まやかしモノながらも、拙い文字に力が宿ったようにも見え、少しだけ空恐ろしい気もした。

二つのお札に記した願いの一つは、この数年間の鬱屈した思いを端的に表現したものだ(デモや集会で、何度も口にした言葉であっても、”呪符木簡なるもの”に、文字の形で記すまでになるとは…)。

これまでの人生の中で、テルテル坊主や七夕の短冊を作ったことは何度もあったけれど、この時期、唐突に”呪符木簡なるもの”を作りたい…などという奇異な欲望が芽生えたのは、やはり”2020年の今”という特異な状況が、自分の衰えた知力・精神力をさらに弱らせてしまったからか。

果たして、”呪符木簡なるもの”に託された暗い情念、負の欲望は聞き届けられるのだろうか? 
それとも”呪い”は、我が身にはね返ってくるのだろうか? 
その答えはいつ出るだろうか?

”Foyle's War ”を見る。

 

巣ごもり暮らしが続き、5月となった。
この数日、ネットで公開中の『刑事フォイル』というドラマに魅入られ、うつつを抜かしている。

非日常的な2020年の日本から、さらに非日常的な1940年代のイギリス・ヘイスティングスへと、PC画面の扉から入り込んで90分余り、まさに時を忘れて過ごすようになった。
(ドラマに没入して見終わった瞬間、自分が今、朝・昼・晩のどの時間帯に存在しているのか分からず、戸惑う。あたりを見回し、ようやく『そうだった…』と納得する。)

このドラマシリーズに、それほど引き込まれるのはなぜだろう?

1940年代のヘイスティングスの人々の暮らしへの関心。
戦時下の人々の欲望と人間関係が生み出す事件の数々についての好奇心。
フォイルという警視正が体現する職業的な倫理観、公正さへの敬意。
その鋭敏な思考力、抑制された表情に滲む、繊細な人間性への憧れ。
彼と係わる周辺の人々の振る舞い、考え方、揺れ動く人格への共感や反感。
そして、第二次世界大戦下の欧米諸国の緊迫した情勢、複雑な歴史・社会に根差す対立構造、階級のそれぞれに根差す無知と偏見、揺るぎない信念や道徳観に根差す憎悪感情…それらに対する恐怖や違和感。

ドラマは私の脳味噌溜まりをかきまわしつつ、毎回鮮やかに展開してゆくのだった。

2020年5月の日本。
私は、1940年代のイギリスを舞台とする刑事ドラマという、何重にも非日常的な世界の片隅で息を潜め、眼を凝らし、緻密な作りごとの一部始終を追いかけてゆく。そして、全てを見終わり、再び、”現実のような世界”に引き戻されて茫然となる。

果たして、いつの日か、この巣ごもり暮らしから抜け出す時が来たとして、私はいったい、どのような現実世界に戻ることができるのだろう…そんな不安もある5月なのだった。

 

≪6日に視聴した『刑事フォイル2』(第4話「隠れ家」)で印象に残ったシーンがあった。それは、ロンドン警視庁のコリアー警部がフォイルの部下ミルナー巡査部長と並んで歩きながら語りかける場面。
話題はドイツ軍による毎晩のようなロンドン空襲の被害のひどさに及ぶ。
「…次はどこが狙われるか分かったもんじゃない。だが不思議なことがある。何があっても翌日には皆仕事に出かける。瓦礫をかき分けて。…」
私はその時、ロンドンの労働者が毎朝黙々と職場に向かうようすを思い浮かべた。リアルな形でストンと腑に落ちた。同じ風景が日本でも見られたし、今も見られるのだと思った。
『刑事フォイル』はシリーズが進むにつれ、しだいに作りこんだストーリーへと変化しているように思う。それでも、こうした細部の何気ない会話や人物の微妙な表情を通して、その人物像や犯罪が抱える時代背景をリアルにのぞかせる瞬間が随所に散りばめられている。そのことで、作品世界の虚実のバランスが保たれているように感じる。
まさに、原題は”Foyle's War ”なのだ。
非日常と日常が並行する世界に生きる仮構上の人々を、今の私は不思議なほど身近に感じる。
巣ごもり暮らしのなかで、今や、生きているという確かな実体感覚を失いつつある私に代わって、海外ドラマのなかの登場人物たちが、リアルな時間を生きてくれているようにさえ感じるとは。
ふわふわとたよりなく
浮遊する私の意識をしばし覚醒させてくれるドラマ…大丈夫だろうか、このまま見続けて。≫

 

f:id:vgeruda:20200506201952j:plain5月5日の海:黒く、重そうな流木。

 

f:id:vgeruda:20200506202014j:plain波打ち際のシギ(キョウジョシギ?)の群れ:美しい啼き声とともに降り立った。その姿を明らかにできるほどには近寄れなかった。

 

f:id:vgeruda:20200506202040j:plain引き波:鉛色の空のわずかな光を反射して、銀の砂を流したような輝きを発する。

 

 

 

 

それでも。

 

3月初旬からの巣ごもり暮らし…ほぼ2か月経ったのか…。

体調の悪い日はあっても、日常生活のルーティンをこなすことができているのはありがたいことに違いない。
望まない。やり過ごす。
自分にかまけているだけの暮らしだ。

しかし、日々の報道に接するなかで、これまで通りの暮らしが立ち行かなくなっている人が増え始めていること、人々にとって、この先の暮らしの行方や人生の道筋が見えにくくなっていることに、やはり不安と焦燥を感じないではいられない。

この漠とした不安感・焦燥感は、9年前の地震津波原発事故のあとに続いた、大きな喪失感とは別のものだ。
2011年のあの時は、怖かった。悲しかった。
私も何かしなくていけない、といたたまれなかった。
そして、武者震いするような力が湧きあがった。

けれど、2020年の今は、なぜか虚しく、無力感に流されるだけだ。
年取ったから。堕落し続けているから。そうなのかもしれない。

 

ネットで映画を見る。
買い物の帰りに小さな公園で息抜きする。
そんな時間潰しが、2011年の時より疚しいような気もする。

それでも、日々を生きて、繰り返し生活してゆかなければならない。
そんな2020年の今。

 

【人魚姫の公園で】

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4月29日のヤマトシジミ:翅が傷んでいるけれど、小さく輝く。

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4月29日のバラ

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4月29日のスミレ

 

 

3月~4月の土曜日の数字を眺めてみる。

 

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4月24日の平塚海岸入り口で

思えば、今春3月の初め、草津温泉に出かけたのが最後の遠出だった。

その後の巣ごもり暮らしのなかで、”国内の新型コロナウイルス感染者”の新聞記事(都道府県別感染者数・死者数などの一覧表)”を毎日切り抜くようになった。

そして、じきに5月を迎えようとする今、溜まった切り抜き記事の数値の動きを、土曜日毎で眺め直している(同じように再びいつの日か、『朝日新聞』のこれらの切り抜き記事を眺め直す時がくるように思う)。

【『朝日新聞』のこれらの記事の数値は、「都道府県の発表」に基づき、また「総数には厚労省の発表も含む」とされている。また4月18日以降、感染者数にクルーズ船の乗客を含めないように変更されている。】

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       国内感染者総数       死者

3月7日(土)    1,113                    12
3月14日(土)  1,422          28
3月21日(土)  1,727          43
3月28日(土)  2,231          62
4月4日(土)    3,843          88
4月11日(土)  6,898           133
4月18日(土) 10,569             207
4月25日(土)    13,576                               358
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このように、3月~4月の8回の土曜日の数字の動きを大まかにとらえれば、感染者総数は約12倍に、死者は約30倍に、と桁違いに増えていることになる(4月18日以降、データの採り方が変更されているので、あくまでも大まかな動きなのだけれど)。

市中感染の広がりが心配な今、これから5月、6月と、土曜日毎の数字を再びふり返った時、その数値はどのような動きを示しているのだろうか、と思う。

そして、この2020年という特異な年を、私たちが改めてきちんとふり返るようになるまで、どれだけの日々が必要なのだろうか、と思う。

【追記】今朝(26日)になって、表下の文章が途中で脱落していることに気がつき、追加・修正しました。

*なお、今朝閲覧したジョンズ・ホプキンス大学 HP の「 COVID‐19‐Map 」 によれば、2020年4月26日午前現在の数値は次のようになっている。
(日本にほぼ近い確認例を示すメキシコ・チリの数値も並べてみた。)

       確認例      死者

メキシコ   13,842      1305
日本     13,231        360
チリ                12,858                       181  

 

 

 

   

 

 

 

四月の虹

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18日土曜日の朝。
雨はまだ音を立てて降りこめている。
時折、台所の換気扇あたりから、風の小さな唸り声が響いてくる。

ひどい天気…それでも、ネット上で雨雲レーダーを見てみると、夕方には晴れるようだった。今日は虹が出るかもしれない…薄暗い部屋のなかで、ちょっと嬉しい気持ちになった。

 

夕方、少し早めに買い物に出た。見上げた空はどこまでも青く晴れあがっている。ちょっと当てが外れた気持ちになった。虹が出そうにはなかったから。

買い物を終えて、いったん家に戻り、カメラを持って再び外に出る。
虹は出ないとしても、海に行ってみたかった。何しろ、もっと新鮮な空気を吸って、もっと歩きたかった。

家の前で見上げた青空は、海に近づくにつれ、しだいに翳っていった。
ぽつりぽつりと、雨が落ちてくる。
海への道を半分以上進んだところで、雨は、朝と同じような音を立てはじめた。

やむなく、シャッターが降りた建物の軒下に駆け込んだ。道路を挟んだ向かいのマンションの玄関先にも、ジョギングの二人連れが雨宿りをしているのが見えた。

雨音は激しくなったり、少し静かになったりを繰り返した。雨粒がアスファルトを打ち付け、流れてゆくさまを、ぼんやり眺め続けた。

短いような長いような宙ぶらりんの時間。
でも、空はどこかしら明るく、雨上がりの虹を予感させた。ただ、西向きに雨宿りをしている私には、真上の空も、後ろに広がる東の空もまるで見えない。

その時、向かいの雨宿りの人が隣の人にうながすように、東の空を指さし、弧を描くような仕草をした。
『虹が出たんだ』と思った。慌てて道路に飛び出し(車はほとんど走っていなかった)、東の空を見上げる。

虹だった。

鉛色の空に大きなアーチを描く虹。

小やみになった雨のなか、海へと急いだ(海に着くまで、あの虹が消えませんように…と願った)。

荒れた海だった。波打ち際に降りてゆく。
虹は、天がけるアーチを失いながらも、海から立ち昇る梯子のような姿で残っていた。

短いような長いような不思議な時間。

いつのまにか、雨は止んでいたのだった。


2020年4月現在も世界じゅうで進行しているコロナ禍は、おそらく偽りの仮想世界の出来事なのではないか、と疑った。
今、美しい虹が出ている鉛色の世界の感触だけが確かなのだった。

四月のその虹の光は、つかのまだけ、強く存在した。

消えてゆく虹の色をふり返り、ふり返り、見る。
気がつくと、海風にさらされた体が冷え切っていた。

 

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f:id:vgeruda:20200419124737j:plain㋃18日の空と海

 

f:id:vgeruda:20200419124751j:plain雨上がりの浜辺から

ドイツと日本…彼我のリーダーの違いとは?

 

14日朝、いつもよりは早い時間にベランダに出た。深く息を吸い込んだ。
目の前のカイヅカイブキの葉先がキラキラと光っていた。
昨日の雨の滴りだった。
カメラレンズを通して覗くと、水晶の玉のように、雫のそれぞれが緑の景色を逆さまに?映していた。

 

午後になって朝刊を読み始める。
多和田葉子のベルリン通信」という記事には、最近のドイツ、ベルリンのようすが報告されていた。”通信”の最後は次のようなものだった。

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「テレビを通して視聴者に語りかけるメルケル首相には、国民を駆り立てるカリスマ性のようなものはほとんど感じられない。世界の政治家にナルシストが増え続ける中、貴重な存在だと思う。新たに生じた重い課題を背負い、深い疲れを感じさせる顔で、残力をふりしぼり、理性の最大公約数を静かに語りかけていた。」

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こうした記事を読む前、私は、”日本の首相から、4月12日に、ツイッターやインスタグラムを通じて発信された動画”というものを見ていたのだった。

それらを目にして、げんなりした気持ちになった。
日本は、近代という道のりをどのような道筋でたどってきたのだろうか?と遠い気持ちになった。
そばにあった『日本史年表』をぱらぱらと眺めてみた。
なぜか、「社会生活」欄の「1936年」に記載された「…ああそれなのに等流行」という事項に目が留まった。

そういえば、流行のリアルタイムではないけれど、子どもの頃に聴いたことがある唄の名だった。
耳に残っていた「あぁそれなのに それなのに」という嘆きの言い回しは、♪  2020年4月14日の私の気分 ♪ にも通じるものがあった。

 

♪  ニュースじゃ昨日も「三密自粛、家にいて」
 何か悲しい通勤電車
♪ ニュースじゃ今日も「三密自粛、家にいて」
 思うは貴方のことばかり

 さぞかし官邸で今頃は
 お忙しいと思うたに

 あぁ それなのに それなのに
 ねえ おこるのは おこるのは
 あたりまえでしょう

 

f:id:vgeruda:20200415115745j:plain4月14日の朝

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4月14日の記事(『朝日新聞』2020年4月14日 朝刊から)

 

 

ミステリアスな『ミステリウム』

 2年前、『日の名残り』という翻訳小説を読み始め、2日目で投げ出したことも忘れ、今回、完全休館に入る直前の図書館から借りてきた本が『ミステリウム』だった。

 しかも、著者のエリック・マコーマックの名もまったく知らないのだった。

  

『ミステリウム』の表紙:
ウィルス模様?を散りばめている。風変わりなデザインなのに、手に取って、すんなりと読み始めてしまったのは、2020年の今だからか?    f:id:vgeruda:20200413194840j:plain

 

翻訳小説…私にとって最初の壁はいつも、その翻訳文だった。
作品の内容以前に、その訳文がかもしだす雰囲気?に慣れることができるかどうか。
そしてもちろん、最強の壁は、著者がここぞと注力して描写を試みる対象に関心がもてるかどうか。また、その描写の癖のようなもの…過剰だったり、もってまわっていたり…につきあってゆけるかどうか。

『ミステリウム』の翻訳については、その戸惑うほどに生真面目な形にも、じきに慣れていった。
見知らぬ著者についても、その視線の先にある世界、それを捉える語り方の新鮮さにしだいに惹かれていった。そして、その見知らぬ世界を知ってみたいと思った。
つまり、『この小説を早く読みたい…』という自然な欲望が生まれていったのだった。


こうして、『ミステリウム』では、”いつもの壁”を乗り越え、見晴らしの利く尾根線に出ることができた。それだけでも嬉しかったけれど、さらに、予想もしなかった新しい景色に夢中になることもできた。

私にもまだまだ本との出会いがあるんだな…巣ごもり暮らしの賜物かもしれなかった。