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私の第三十四夜をつづります。

祈りの造形(3)

 15日と18日、上野と千葉で開催中の展覧会に出かけた。私にとって日常の暮らしとは別世界の贅沢な時間、空間だった。神社展では伊豆山神社男神立像や六所神社男神立像について、また仏像半島展では下吉沢の不動明王立像について新しい視点、手がかりを得られるだろうか、と思って出かけたのだ。
 しかし、次から次へと顕れる眼の前の強烈に個性的な造形に見入るばかりだった。そして今、神像とは何だろうか、という思いだけがますます強くなっている。これまで、仏像とは何だろうかといぶかしく感じたことは無かったと思う。仏像とはただ向かい合うだけで良かった。静かで美しい。神像はそうではないと思う。貴方は誰?と問いかけても、言葉が通じない。気持ちが通い合わない。それでいて仏様達よりずっと人間臭いようでもあるのだ。何を想うのかが不明で不気味でさえある。
 今のところ、私の狭い経験から得た漠然とした感触からは、仏像は”生まれるべくして生まれたもの”で自然であるのに対し、神像は”生み出そうとして生み出したもの”で不自然である・・・そのような表現しか見つからない。現実の日常生活の中で、出会った瞬間に『この人はたぶん私とは違う人間だ』と直感する・・・そんな違和感、自分との共通項を欠いた人間への違和感に似ているだろうか。
 そういう意味で、今回、大神社展と仏像半島展を見学したことで、一つ、自分だけで合点できたことがあった。大磯町・六所神社の少年のような男神立像は、私にとって、神像ではなく、敢えて分類するならば仏像の造形だということ。第一印象を肯定しただけの合点なのだけれど。