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私の第三十四夜をつづります。

秋田城出土の緑釉陶器

 5月の末の慌しい旅のなかで、史跡秋田城跡と秋田城跡歴史資料館を訪ねた。
 かつて考古学のサークルで活動していた頃、秋田城の”古代水洗トイレ跡”についての報道があった。その遺構の特殊さ(?)は印象に残っていたものの、秋田城跡まで出かけ、その復元建物を見学することになるとは、夢にも思っていなかった。だから、今回、実際にその史跡公園を”散策”できた時間は、私にとって降って湧いたような幸運だった。
 そして、現代の秋田市に残る自然環境を活かしつつ整備された史跡空間を巡りながら、とても羨ましくも感じた。私が生まれ育った平塚には、こうした歴史的時空間を散策する広大な公園は存在しないから…。
 また、歴史資料館では、平塚市出土の見慣れた緑釉陶器とは、少し雰囲気の異なる資料も見ることができた。
 その緑釉陶器資料のうち、濃緑色の小さな破片については、横浜市歴史博物館の企画展(「東へ西へ 律令国家を支えた古代東国の人々」 2002年)で展示されたものだった…帰宅後に調べてみて、それと知った…。
 そして、もう一点の緑釉陶器埦が、平塚では見慣れない資料に思えた。
 まず、その高台が平らであること(平底の中央に円形の浅い沈線のようなものが見えるけれど、蛇の目高台でもなく、糸切り痕でもない?)、比較的に淡い黄緑色であること、9c前半のものであること…そんなことに興味をもった。
 これまで、私が見たことのある平塚市内出土の緑釉陶器のなかでは、削り出し高台の資料は淡黄色の軟質(断面が白色)のものが多かったし、出土遺跡も限定的だったように思う。
 そして、9c前半の緑釉陶器も、量的には、9c後半の資料に比べて希少なものだったと思う。
 さらに、平高台であれば『京都産?』という思い込みがあったので、秋田城のこの緑釉陶器埦についても、京都・洛北の窯で作られたものだろうか?と想像した。
 帰宅後に少し調べてはみたけれど、まだ、この資料の出自は分からないままだ。分からないままながら、9c前半の秋田城に、この緑釉陶器が誰によって、どのように持ち込まれたのか…興味がつきない。

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横浜市歴史博物館の企画展で展示されたことのある緑釉陶器碗と緑釉陶器皿

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9c前半の緑釉陶器碗


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9c前半の緑釉陶器碗:
削り出し(?)の平高台(?)が下から覗くと、見て取れるように、硝子板上に展示されている。