まだ社会の中で、人々の間で一生懸命に生きていた頃、3月は、何となく憂いが漂う季節だったと思う。
学生時代は学校生活というもの。
勤めていた頃は職場というもの。
家庭では家族というもの。
3月という変化の多い独特の季節が、それぞれの場の憂いや不安を呼び覚ましてしまうようだった。だから、長らく、3月という季節に複雑な印象を抱いてきた。
人々の間から遠ざかった今、そんな社会生活の”憂い”とはほぼ無縁になった。
良いことなのか? いや寂しいことなのか?
そして、2021年3月。
何か新しいものを探したくなった。
たとえば、
*野鳥時計から響いてくる啼き声が春の鳥に代わって、それはそれは明るくなった。
(思えば、野鳥時計の冬鳥は水辺の鳥たちが多かった。それは野性的で、野太くさえあった。それが3月になってからは、小鳥の囀り…コロラトゥーラ…で目が覚めることになった。それはとても心地よいのだった。)
*また、友人から教えてもらった Duolingo で英語の”勉強”を始めてみることにした (そのパソコン上での”勉強”は遊び・ゲームに近いものだった)。友人はフランス語とギリシャ語を始めたのだという。確かに、私たちには、”憂い”などと対話している時間など残されていないのだった。
*あとは、中断していたストレッチを再開した。40代半ばから自分なりに続けてきたストレッチは、体調のバロメータになっていたようだ。この半年ほど、遠ざかってしまったけれど、まずは身体の柔軟さを取り戻そう。
3月になって、季節は代わってゆく。変わってゆく。
3月1日の海
3月1日のサクラ