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私の第三十四夜をつづります。

観音様の気になる後ろ姿

 

雨が降りやみそうもない9日朝、上野に向かった。
6月以来の上京だ。
感染が収束しないなか、車中は本を読んで気を紛らわした。

上野駅に着いて公園口がすっかり変わっていることに驚く。
(帰り際に駅の売店に立ち寄り、去年の春から…とっくに…新しく変わっていたのだと聞き知る。巣籠りの身にとって、世の中は、かくも玉手箱に満ちている。)

 

暗い展示室に入ると、いつか必ず拝してみたいと願っていた聖林寺の十一面観音像が、そびえるようにそこに降臨していた。

間近で見上げる…遠のいて見渡してみる…周囲を巡っては立ち止まって眺め直す…それを何回も繰り返した。

拝しながら、三輪山の麓の小暗い道にサッと吹き通る風を思い出した。また、この観音様が三輪山の麓に誕生してからの長い時間を思った。

こうして、閉塞した展示室のなかで過ごした時間は、日常生活の時間と比べて、ほとんど流れずに静止していたように感じられた。

観音様を中心にして、止まった時間のなかを、私の身体だけがぐるぐると歩き回っている…そんな感じだった。

その観音様は、私にとって、”天平彫刻のなかの一体の仏像”という存在ではなかった。ただ一つの「そこに存在する仏様」だった。

時代や制作技術、ましてや他の像と比較しての在り方を見極めるような視点は持ち合わせていない。ただ、自分がどう感じるのか。それだけだ。

法隆寺百済観音像。渡岸寺の十一面観音像。薬師寺の日光・月光菩薩像。円成寺大日如来像。そして、眼の前の聖林寺の十一面観音像。出会い、心動かされたそれぞれの仏様の前で、問いかけを繰り返してきた。

『貴方は誰なのですか?』

いつも、決して答えてはもらえない。しかし、その存在が何かを強く発していることを感じる。だから、そう問いかけないではいられない(ただ、上野で拝した百済観音像だけはなぜか違った。眼にした途端、問いかける間も無く、脳天から電流が走り抜けたような感じがあった。あれは何だったろう?と、今も思い出すと不思議な気持ちになるのだ)

聖林寺の観音様も曖昧な表情のままに、何かを見据え、ずっと立ち尽くされたままだった。

拝観を終えて、再び、雨の中を帰る。

帰宅しても、まだ拝観の興奮の余韻が残っていた。
観音様の背中の表現…ことに右肩甲骨あたりの肉感…が気になり、後ろ姿のバランスが似ている渡岸寺の十一面観音像の写真を取り出してきた。

さっそく、今日買い求めてきた”入江泰吉氏撮影の「聖林寺十一面観音」の絵葉書”と比べてみる。

やはり、聖林寺の観音様の背中の肉付けは独特のようだ(なぜ、あれほど”コブ”のように盛り上がった表現なのだろう?)

また、気になる謎が増えてしまった…。

 

 

雨に濡れる幟

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本館内のステンドグラス

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雨に咲く花

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渡岸寺の十一面観音像と聖林寺の十一面観音像

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