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私の第三十四夜をつづります。

観ないとわからない何か…。

つい先延ばしにして5月も半ば…18日、ようやく「メトロポリタン美術館展」を観ることができた。

新国立美術館の予約時間の前に、近くのサントリー美術館まで歩いてみた。

大きなビルの奥まったところにサントリー美術館はあった(思えば、移転前も移転後も、一度も訪れたことのない美術館だった)。

管理の眼が行き届いた美術館の小さなショップに入ってみる。
現在開催中の「北斎展」の絵葉書のなかに、サーモンピンクの百合を描いたものがあった。「天保2-3年(1831~32)頃」とされる作品だった。その1枚だけを買い求め、再び爽やかな戸外に出る。

巨大な洗練された商業ビルの空間を離れると、5月の街角にはやわらかな風が吹き、緑の木立のやさしい影があった。
なぜか、その空間には、過去・現在・未来の連続した命が流れているように感じられ、少しホッとした。 

新国立美術館に戻り、コロナ禍の圧力をほとんど忘れて、予約時間を待つ人々の長い列に加わる。コロナ禍の憂いを封じ込めるように、人々の”観たいという欲望”は、この吹き抜けの高い天井にまで立ち昇っている…はっきりとそう感じた。

メトロポリタン美術館展」で楽しみにしていたのはフェルメールの『信仰の寓意』だったけれど、観終わってみれば、心惹かれたのはその作品ではなかった。
(その『信仰の寓意』には、私が感じたかった”フェルメール的な「何か」”が無かった。
室内を満たす光と闇の親和的な広がり。”絵”でなければ表現できない…実在を超えた…”モノ”の質感の美しさ。作品空間に静かに流れる奥行きのある時間。そうしたものが見つからなかった。
そして、”寓意”の主題は無機的に陳列されるだけで、画家として何ものをも表現していないように見えた。
最晩年期の作品ではあるけれど、できれば”贋作”であってほしいような気持ちになったのだった。)

一方で、これまで全く知らなかった作品…レンブラントの『フローラ』やゴヤの『ホセ・コスタ・イ・ボルネス』の前では胸がときめいた(今回、エル・グレコやベラスケスの作品も含め、スペインの画家たちの作品に共通する”何か”を感じることができたのが嬉しかった)。

美術展で、人々は、その眼で実際に観なければわからない”何か”を観るのだし、それぞれが観た”何か”は同じではないはず。今日の人々は、それぞれ何を観たのだろう…ちょっと知りたいと思った。

帰りの電車の中で、いつものように頭痛も始まり、帰宅して横になるほど疲れてしまったけれど、今の私には、こういう疲れもやはり必要なのだ…。

 

波打つ新国立美術館

 

美術館近くの街角で

 

 

 


~日経イノベーションラボ制作の映像:【年表】から~
                   (国立新美術館メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年』)

 

レンブラント『フローラ』(1654年頃)      *フェルメール『信仰の寓意』(1670~72年頃)

          

          ゴヤ『ホセ・コスタ・イ・ボルネス』(1810年頃)