enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2019.6.10

 梅雨らしく、一日じゅう雨降りとなった日曜日、旅の写真のまとめを後回しにして、平塚市美術館に向かった。
 
 先日、兄から電話をもらった。私から掛けなおした電話で、兄は「たいした用じゃなかったんだ。いや、さっき見てきた美術館の絵がなかなか良かったものだから…」と、”荘司福”という日本画家の展覧会を奨めてくれたのだった。日曜日は、その展覧会の最終日だった。
 兄はこうも言っていた。「みんな、東京には出かけるのに、地元の美術館にはあまり行かないって言うんだよね。行って見なければ分からないし、ゆったり見れるのにさ…」
 『確かに…』 と思った。で、行ってみることにしたのだった。

 ”荘司福”…初めて聞く名だった。そして、以前、静岡の知人から”秋野不矩”という、やはり日本画家を教えてもらったことを思い出す。調べてみると、福さん(1910~2002)と不矩さん(1908~2001)は、ほぼ同年代の画家だった。
 
 初めて見た福さんの絵は気持ちよかった。
 ことに、1980年代以降の絵は、画家が向き合った自然が、そのままに美しく献上されているように感じた。画家の心、画家の眼、画家の技術というものが、その作品のなかで、向き合った自然に対する”献上”という形で捧げられているような?…それが気負いもなく、そのままに差し出されているような…。

 画家は70代になっても、こんなふうに仕事を残せるのだ…画家という生き方の幸せを思った。福さんが描いた時の移ろい、自然の移ろいが、作品を巡る私たちの空間へと広がってくるような気持ちになった。
 見終わって外に出ると、空気がひんやりしている。次兄に電話してみようか…と思った。見てきたと伝えれば、きっと嬉しそうに「そう? 良かった?」と喜んでくれると思った。でも、結局しなかった。
 次兄は、本当なら、亡くなった奥さんに、見てきた荘司福さんの絵のことを伝えたかったし、今だって、奥さんと一緒の時間を過ごしていたかったのだから。
 雨は止んでいるように見えるほどに、まだ細く降っていた。

同時開催の「空間に線を引く」展で:三沢厚彦 「Cat 2014-02」 (2014年 樟、油彩)
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(撮影許可のある作品に、喜んで携帯を向けるとシャッター音が響きわたった。予想外に大きく。しまった…と思った。案の定、係の方に注意を受け、慌てて謝る事態に。私は、自分の携帯がシャッター音を消すことができないものと知りながら、つい撮影の誘惑に駆られてしまったのだった。すみません…。)