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私の第三十四夜をつづります。

道路状遺構の剥ぎ取り資料を見て。

6日、平塚市博物館に出かけた。

開催中の春期特別展「ひらつかの古道を行く」の関連行事として、考古学の講座を聴いた。できる限り、こうして特別展を見学したり、講座・講演を聴いてみたりするけれど、分からないこと、知りたいことがふえてゆくばかりだきっと、古代東海道のことも相模国府のことも歌人相模のことも、何も明らかにならないままに終わるのだろうなぁ…。)

 

”古代東海道駅路”の剥ぎ取り資料の展示:
相模国府域の北西・外側に位置する東中原E遺跡第4地点で検出された道路状遺構の一部…まさに”道路そのもの”が展示されている(解説文に ”触っても良い”と書かれていたので、”そっと” 触ってみた)
調査区の写真パネルを見たり、この剥ぎ取り資料を指で触ったりしたことで、2004年4月の現地説明会のこと…市内の現地説明会としては驚くほど多くの人々が集まった…を思い出した。
あの時、私は2本の道路状遺構がそろって調査区外に消えてゆくようすを眺めながら、道路が南西方向(大磯海岸方面)に向かっていないことに、ちょっとがっかりしたのだった(道路は谷川沿いに西に進み、花水川を渡って出縄を通り、不動川沿いに寺坂を過ぎて大磯の国府本郷へと向かうのでは?と思っていたので)

あれから、この古代道路につながるような大きな発見はなかった。

それでも、現地説明会で見たデコボコの道路の剥ぎ取り資料が久しぶり(?)に展示されたことで、その硬化面の断面を覗き込み、厚みを確かめ、”古代東海道”の存在を再び身近に感じることができた(やはり”モノ”がもつ魅力、パワーは凄いなぁ)

 

”古代東海道駅路跡”が検出された調査区(東中原E遺跡第4地点)の写真パネル:
写真右上の2条の道路(同方向に走る3条の溝状遺構と2条の道路状遺構。全体幅9.7mの奈良・平安期の東海道駅路:東側の道路面・硬化面は後世に削平されている。古代~中世期に再整備された幅3mの道路:硬化面が残存しているが、北西に進んだ先のルートについては、依然として分からないままだ(東方向のルートについても、相模国府域内に入って相模国庁とどのような位置関係で走ってゆくのか、そしてどの地点で相模川を渡河するのか、明らかになっていない)
また、直線的(北西⇔南東)に走るもう1本の「溝状遺構(古代)」も、いまだ謎を秘めたままだ(南東先で”古代東海道駅路”と交わったりはしないのだろうか?)

              👇この先、2条の道路はどのようなルートをとるのだろう? 
                            👆古代の大きな溝状遺構                                         

       

                   👇この赤い紐の先が「東中原E遺跡第4地点」

 

講座を聴き、展示を見直したあと、総合公園の桜を見た。良いお花見をした。

総合公園の桜:
(薄曇りの空にかかる横雲のように、桜たちが白く薄赤く咲き重なる。あぁ、”時は春”…なんとやわらかな季節になったことだろう。若い頃にはさほど心惹かれなかった春の景色に、今は素直に心がとけこむ。”すべて世は事も無し”とは言えないけれど)

【追記】
今回の特別展で心惹かれた資料の一つが須恵器の甕(「第3章 道を行き交う人々:道がもたらすモノ」)で、施された文様も色合いも美しくて驚いた。
日和山古墳」(現在は消滅)から出土したとされるこの資料は、これまで写真…古い郷土史の粗い白黒写真…でしか見たことがなかった(はずだった…のに、帰宅後に確認すると、実際には2001年の特別展「相武国の古墳」で出品されていた資料だった。私の節穴の眼は、当時、この須恵器甕に気がつかなかっただけだった)
この「日和山古墳」は、東中原E遺跡の道路状遺構の北約400mほどの砂丘上にかつて存在し、その北東約700mの砂丘上には真土大塚山古墳も存在していたのだった(東中原E遺跡の古代東海道駅路は、おそらく日和山古墳の西、つまり現在の大野中学校の西側を通って渋田川を渡河したのではないだろうか?)
この「日和山古墳」について、『平塚市史 11上  別編 考古』では次のように記されている。

「…日和山古墳からは、墳頂下五十㌢から須恵器の甕が出土したことが伝えられ、現在では大野中学校に収蔵されている(図11)。この土器が日和山古墳から出土したことが確実ならば、古墳はほぼ五世紀代のものとみなすことができる貴重な資料である。…」

これからも、いろいろな歴史を秘めた”モノ”たちにたくさん出会いたい(すぐ忘れてしまう私は何度見ても新鮮?)