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私の第三十四夜をつづります。

企画展『幡多から波多野へ-古代の秦野-』(「下大槻峯遺跡」そして『古代神奈川の道と交通』)(1)

 

14日、秦野に出かけ、企画展『幡多から波多野へ-古代の秦野-』を見た。

桜土手古墳公園を訪ねるのは何年ぶり…いや何十年ぶりだろう。急な雨で公園の緑はしっとりと濡れていた。

同じ県内とはいえ、秦野はやはり遠い。
訪ねたことのある遺跡といえば、この桜土手古墳群と二子塚古墳の記憶しかない。あとは、古代集落としての草山遺跡、”遠賀川系土器”が出土した平沢同明遺跡などの名前が思い浮かぶだけだ。

その秦野は、相模国府域内の古代東海道が北西に向かうその先に位置する地域でもある。そのような位置づけの秦野について、今回の企画展で何かしら学びたかった。

そもそも、私には古代交通についての知識がない。
私にできるのは発掘現場を見学すること、『神奈川の古代道』藤沢市教育委員会 博物館準備担当 1997年)とその「神奈川古代交通網復原図」を折に触れて眺めるだけだった。古代交通に関する情報は私のなかで何も更新されてこなかった。

一方で、構之内遺跡・東中原E遺跡の道路が北西に向かうことについて、ずっと疑問を持っていた。(『構之内遺跡・東中原E遺跡の道路はなぜ、大磯方面へ向かわずに北西に向きを変えるのか? 『神奈川の古代道』の図とは異なるルートをとるのか? 北西に進み渋田川を越えてから大磯方面へと南下するのか? わざわざ北上してから南下するのはなぜか? 構之内遺跡・東中原E遺跡の道路が、谷川沿いに進んで花水川を越えるのではなく、あえて北西に向きを転じるのは、北金目・秦野地域と相模国府域を結ぶためではないか?』と。この疑問は、木本雅康氏の論考〔『ふるさと歴史シンポジウム 復元!古代都市平塚~相模国府を探る~」ふるさと歴史シンポジウム実行委員会 2006年〕をもとにしたものだ。
”北西に進み渋田川を越えてから大磯方面へと南下する”との見通しには納得できないけれど、明確な実証材料が無い…その時点ではそう思っていた…ので、木本氏の考察をもとに、次のように理解してきた。
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『神奈川の古代道』の「神奈川古代交通網復原図」のように、延喜式による東海道駅路(海辺ルート:足柄峠坂本駅~小総駅~箕輪駅)から分岐する形で、足上郡と愛甲郡とを結ぶ内陸ルート(矢倉沢往還の道筋)が走り、その内陸ルートからさらに分岐する道が、秦野(余綾郡)から平塚(大住国府)へと、金目川流域を走っていた。
その道は大住国府域内に入ったあと、東海道駅路の海辺ルートと合流して相模川を渡河する。
つまり…「東山道武蔵路」が、東海道(海沿いルート)と東山道(内陸ルート)との連絡機能をもつように…相模国内においても、

 海沿いルート(駅路):足上・足下・余綾・大住・高座の郡衙を結ぶ道
            (鎌倉・御浦郡は『延喜式』以前の駅路ルート上にある)
       (駅家郷):足上・足下大住高座 
      
(駅家/駅馬):坂本(足上)・小総(足下)箕輪(大住)・浜田(高座)
       
 (伝馬):足上・余綾・高座
 内陸ルート(伝路?):足上・余綾・大住・愛甲・高座の内陸部の郡衙や拠点を結ぶ道
 ①と②の連絡道:余綾郡内陸部と大住国府を結ぶ金目川流域の道

がある。
そして「相模国府域内の古代東海道が北西に向かう」のは、の道として金目川流域を走り、余綾郡内陸部と大住国府を結んでいたから。

【(2)に続く】

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【企画展『幡多から波多野へ-古代の秦野-』に出かけて】

桜土手古墳公園(7月4日)

 

銀装圭頭大刀(二子塚古墳)

左から:
陶馬(西大竹尾尻遺跡群)    彩釉陶器(寺山中丸遺跡)    海老錠稲荷木遺跡)


秦野盆地の解説パネル          秦野の平安仏の解説パネル


寺山中丸遺跡の解説パネル        秦野の平安仏の解説パネル