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私の第三十四夜をつづります。

饒益神宝のこと

 茅ヶ崎のシンポジウム『下寺尾官衙遺跡を考える』の中で、北B遺跡…下寺尾寺院跡(七堂伽藍跡)から駒寄川を挟んで南東に位置する…についても発表があった。
 その北B遺跡の発表の中で、河道内祭祀遺物の一つ…皇朝十二銭”饒益神宝”…の余談として、「数が少なく、現存するのは100枚あるかないか」という話があった。おや?と思った。”饒益神宝”は、平塚市内で出土する皇朝十二銭のなかでも、”富寿神宝”とともに目立つような数が出ていたように感じたからだ。
 
(注:平成14年刊行の『平塚市内出土の古銭』によれば、皇朝十二銭のうち8種、合計25枚が出土。内、”饒益神宝”は6枚、”富寿神宝”は5枚が出土。また、”饒益神宝”について、ウィキペディアでは「鋳造期間も11年と短く、皇朝十二銭のうち、現存するものが最も少ないといわれている。皇朝銭の出土記録として、1万2千枚余りの内、饒益神宝の出土は76枚と銅銭としては最も少ない。」とされていた。)
 
 出土数が最も少ない”饒益神宝”が、平塚市だけで6枚は出土していること。しかも、その発行年は859年(貞観元年)であること。859年は、大住郡大領壬生直広主が従五位下の官位に昇り詰めた年であること。さらに、6枚中の4枚が構之内遺跡第1地区A地点から出土していることが興味深い。
 ちなみに、構之内遺跡では同じ第1地区A地点、第2地区から”富寿神宝”が1点ずつ、古代東海道が検出された第3地区から”隆平永宝”・”神功開宝”が1点ずつ出土している。構之内遺跡に計8点の皇朝十二銭が集中していることも、この遺跡の特色の一つと言える。
 
(注:『平塚市史 11下 別編考古(2)』において、構之内遺跡第1地区A地点について「遺物ではA地点から”富寿神宝”1枚と”饒益神宝”4枚の計5枚の皇朝十二銭が出土している。この数は県下最大の出土点数となっている。」と評価されている。)
 
 ”饒益神宝”が茅ヶ崎や平塚で祭祀行為に使われた時代、相模国弘仁地震(818年)に続く大地震(元慶2年・878年)に見舞われた時代、構之内遺跡という相模国府域内でも有数の遺跡の年代、郡大領壬生氏が相模国の歴史に足跡を残した年代、さらには下寺尾寺院跡の改修・再建~廃絶年代。
 9世紀中葉~後半という年代幅のなかで、これらの遺物と遺跡、人々の動きがパズルのように係わっている。この時代が残したバラバラのかけらから、全体像のイメージが結ばれる日が、いつかきっと訪れることだろう。