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私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社の男神立像

 今春の伊豆山神社参詣から3か月が過ぎた。
 昨日、京都での修復を終えて熱海に里帰りした神像を、ようやく目の当たりにすることができた。美術館展示室の奥まった一部屋に、この一体だけが展示されている。神像の重量感、生々しい存在感に見合う空間だ。
 
 初めて対面して真っ先に感じたのは、時代を越えた強い個性と存在感だ。造形としては11世紀当時に生きた人間そのものを写したかのように見える。異質な他者として自己完結しているようで、とりつくしまがない。それでいて、薄く閉じられた眼は、貴族的な超越感とともに、気まぐれな興味、欲望を隠しているようにも感じられる。
 
 また、歌人相模が走湯権現参詣を果たした時点で、このような神像は無かったはずだ・・・と感じた。なぜなら、このように圧倒的な存在感を放つ神像を拝してのち、権現僧の返歌百首に対し、歌人相模が、再び切って返すような百首を詠むとは思えないからだ。
 そう感じる一方で、歌人相模の煩悩に対して、この神像が権現僧の形、人間の形を借りて百首を詠んだとしても不思議がない・・・そのような妄想もよぎる。つまり、走湯百首歌群の世界は、この写実的な神像を眼にした歌人相模が、神像を擬人化することでつくりあげた、虚構の枠組みの中での文学世界だったのではないかと。
 
 4月から待ちに待ったこの日、神像を実際に見ることで何かが見えてくるのではないか、そんな期待があった。しかし、ただ頭の中で歌人相模の道を行きつ戻りつしただけで、”11世紀の伊豆国で、なぜこのような神像が祀られたのか”という疑問は残ったままだ。
 
(この神像の造形について・・・唯一異形と思えるのは、足の爪が3本であること。仮に履物の形としても特異であり、また裸足であるというのも頭巾・朝服の出で立ちとは不釣合いに思える。神としての属性が3つの足爪として示されたのだろうか。 【補記:その後、『三浦古文化』第30号(1981年)所載「伊豆山神社木造男神立像考」(鷲塚泰光)のなかで、「先端に盛上りを作り簡略に刻みを入れる大ぶりで力強い沓の表現も手と同様に平安中期の様式を伝えるものと考えてよかろう」とあり、「沓」であることが分かった。”3つの足爪”は素人の妄想となった。】 顔立ちについては、敢えて例えるならば、韓国の男優”ソ・ジソブ”のように太い眉をややひそめ、一重瞼で面長であるが繊細ではない。手も貴人のものではなく無骨な印象だ。また2mを越える身長でありながら、顔が大きいために、スラリと伸びやかな印象とは程遠い。また、朱で塗られていたとされる赤茶色の肌が、園城寺新羅明神坐像の厚塗りの白い肌と共通する異様な質感を感じさせる。)
 
 今回、この謎めいた神像のほかに、伊豆山神社ゆかりの資料の数々、そして脇街道根府川通を描いた『五街道分間延絵図 根府川通見取絵図』や、また思いがけず、熱海市水口町遺跡の「緑釉長頸壺」(9世紀)などの貴重な遺物も見ることができた。
(緑釉長頸壺について・・・説明によれば、京都産で海路で搬入された製品とのことだったが、高さ20cmほどの小ぶりの壺なので、陸路で持ち込まれた可能性もあるように感じた。色調はやや濃い沈んだ緑色。相模国府で出土する京都産緑釉陶器は、どちらかと言えば黄色味を帯びた若草色という印象があり、器形とともに興味深かった。)
 
 伊豆山神社男神立像の成立については、熱海周辺の奈良・平安時代の歴史のなかで読み解かれるべきものなのだろうが、相模国府について学ぶ私としては、相模国司たちの足跡を調べるなかで、11世紀の神像の謎を追いかけてみたいと思っている。
 
熱海の海(美術館から)
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