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私の第三十四夜をつづります。

年の瀬のなかの”秋”

 

27日午後、図書館で本を借りてこようと街に出た。

街なかの八幡様の横を過ぎ、信号待ちをしていると、歩道際に咲き残る薔薇に気がついた。ピンク色の薄い花びらが西陽を透かしていた。

携帯を取り出し、その薔薇を写そうとしたちょうどその時、友人からメールが届いた。

で、お互いにちょっとした偶然が重なり、図書館の近くで逢うことになった。

2020年という一年が押し流されるように終わってゆく虚しさ。来年の見通しが少しも立たず、今年と同じような一年が繰り返されることになる予感。

お互いの思いはため息へ変わってゆく。

それでも、最後に友人は、それらのもどかしさを忘れさせるほどの香りに満ちた花束を、私に手渡してくれたのだった。

今、家には3冊の本と一抱えもある香り高い花束…いつになく前向きな気持ちになれた一日だった。

 

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今日28日は、届け物をしようと、海岸近くの次兄の家に向かった。

途中の公園を通り過ぎる時、細やかな黄葉が豊かに枝垂れて、道へと流れ出ている姿が目に入った。萩だった(たぶん…)。

年の瀬の今なお、町のそこかしこに残る”秋”の余韻を確かめながら歩き続ける。

次兄は留守をしていた。

玄関先に届け物を置き、兄の出かけ先を考える。
お墓参りかな…?

帰宅してしばらくすると、次兄から電話があった。

思った通り、次兄は義姉の墓前に出向いていたのだった。兄の2020年もまた、もうすぐ終わってゆく。

 

「 秋萩の 下葉の黄葉 花に継ぎ 時過ぎゆかば のち恋ひむかも 」
                     (『万葉集』 巻10 2209 作者不詳)

 

 

南の空の茜色。

 

12月15日、安曇野の友人からのメールには、「昨日から雪が舞い始めた…」とあった。

続くメールのなかで、友人は、先のメールの中の脱字を訂正してきた。
(私は、全く気がつかず、その字を補って読んでいた。)

NHKのローカルニュースで”John”の綴りミスが気になっていたのに間違って…自分も気をつけねば…」と友人は気にしている。

何だか、可笑しかった。

偶然、私もその日、読んでいた朝日新聞の記事中で、”ブリガリア”(もちろん、正しくは”ブルガリア”)という誤記に出会っていた。

私もそうした誤字・誤記が気になる性分なのだった。
(まだ20代の頃という大昔、原稿中の「持続天皇」…もちろん、正しくは「持統天皇」…をそのまま素通りし、”校了”とした経験がある私。それなのに、人のミスだけはやけに目につく…という性格の悪さは、いまだ目玉の奥底に張り付いているのだ。自分が犯すミスの多さは、ドンと棚に上げて…。)

 

16日、17日…列島は、雪の女王が翻した白い裳裾に覆われてしまったように見える。


それでも、安曇野の雪は2㎝ほど積もって、やがてほとんど溶けていったようだ。

 

安曇野の友人とのメールのやり取りが、列島を覆う白い雪雲を超えて、他愛無く続く。

 

 

 

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16日夕方の人魚姫:南の海上の空には、茜色の雲…。12月の夕焼けの不思議な色合い。

12月の日曜の午後。

 

13日午後、町の中央公民館でコンサートが開かれた。
そのコンサートのサブタイトルは「希望を音楽にのせて」。

コロナ禍の2020年を、”希望の音楽”で見送ることができるのは、とてもありがたかった。

会場まで、街なかを抜けてゆく。
ゆっくりと歩きながら晩秋(初冬?)の空気を味わう…こうして師走の街なかを歩くだけで、何だかしみじみと幸せな気持ちになる。向かう先には、音楽にひたる時間があるのだし…。

 

3部構成のコンサートは盛沢山だった。

そして、町のホールは、出演したテノール歌手にとっては小さすぎるかのようだった。
「星は光りぬ」も、さらに「誰も寝てはならぬ」も、そのゆたかな声量によって、私の鼓膜は現実に振動し、ビリビリと震えた…そんなことは初めてだった。

コンサートは2時間半近くに及び、終わった。

会場の外に出る。街にはすでに薄闇が下りていた。

ふと、来年の師走に「第九」を聴き、今日のコンサートのことを思い出してみたいな…と思った。
12月の日曜の午後。
音楽にひたった時間は、確かにこんなふうに、私に”ささやかな希望”を持たせてくれたのだった。

 

 

f:id:vgeruda:20201214205931j:plain12月13日のプログラムから
(『平塚 オペラ・ガラ・コンサート2020 ~希望を音楽にのせて~』)

2020年秋:八幡平④

f:id:vgeruda:20201130222529j:plain廃墟の先の水辺(位置としては、おそらく「影沼」の北端あたり?)

 

 

2020年最後の秋。

一年には365日が詰まっているけれど、そのうち、「秋」と感じ取るのは何日分くらいなのだろう。
毎年、毎年、「秋」はやって来て、過ぎていく。
結構、それは短い日々。


また、すでに70年近くを経た私の人生の「秋」はいつだったのだろう、とも思う。
今が「秋」なのだ…と日々確かめることもなく、いつのまにか終わっていたのだった。それは、季節の「秋」より、ずっとずっと短かったかもしれない。

 

2020年…いつものように秋はやって来たし、いつものように過ぎてゆこうとしている。

11月の最後の日に、撮りためた八幡平の秋景色を、夢と同じように遠く眺め返す。
確かにあったけれど、もうどこにもない。季節は、いつもそうだ。

私の人生の「秋」も確かにあったはずなのだけれど、もうどこにもない。
「冬」がこれからやって来る? それとも、もう来ている?

 

 

【八幡平の高原で:10月16日の写真から】

 

f:id:vgeruda:20201130221134j:plain朝の林の中で

 

f:id:vgeruda:20201130221155j:plain紅葉・黄葉に埋もれるシュールな冷却塔(松川地熱発電所):
この「松川地熱発電所」の名を知ったのは1970年代半ば頃。
2011年3月という境界点を越えてしまった今、その意外な姿と美しい立地環境に不思議な感情が湧いた。

 

f:id:vgeruda:20201130221219j:plain地熱発電所から見る紅葉・黄葉(「小畚 (こもっこ山」?方面)

 

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 紅葉する花(「影沼」の北端あたりで迷い込んだ廃墟の庭で)

 

f:id:vgeruda:20201130222611j:plain芭蕉沼」:
松川左岸には沼が点在する。地図を頼りに「五葉沼」や「湯坂沼」などを巡った。
この「芭蕉沼」も、ひっそりとしながらも”健在”だった。

 

f:id:vgeruda:20201130222637j:plain芭蕉沼」に映る林

 

f:id:vgeruda:20201130222659j:plain松川渓谷の柱状節理(松川玄武岩):
16日は、こうして、地熱発電所のある松川温泉から、沼巡りをしながら歩き続けた。松川の流れがはっきりと姿を現し、しかも蛇行している地点には「柱状節理」まで展開していた。あぁ、旅が終わってゆく。

 

「あぁ、旅が終わってゆく」…いや、旅の本当の最終日(17日)には、欲張って、横浜の博物館に立ち寄っていたのだった。
パンパンのリュックを館のロッカーに突っ込み、旅の疲れと興奮の残るよれよれした身体と脳味噌で、むりやり拝した仏様たち。
本来ならば、別の日に改めて出向き、静かな心持ちで向かい合いたかったのだけれど…。

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特別展「相模川流域のみほとけ」のチケット(神奈川県立歴史博物館):
今回、初めて拝した平塚市・宝積院薬師堂の薬師如来立像の存在感に動揺した。
チケットにもお出ましの宝積院の薬師如来像は、旅の帰路の途中(ついでに?)、「65歳以上 200円」で拝した私を、少し冷めた視線で見ていらっしゃるような…。

2020年秋:八幡平③

f:id:vgeruda:20201125211915j:plain落葉の色採り

 

 

11月25日…夕方になってから街に出る。
イチョウ並木の落葉が、歩道際に黄金色の吹き溜まりをつくっている。

25日?…そうか…三島由紀夫のことをすっかり忘れていた自分に驚く。
そして、怖いほどに薄れゆくものは、三島由紀夫についての記憶に限らないのだった。


この頃では、”かつてあったはずの自分という存在の形”…私が唯一、最も良く見知っていたはずの存在の形が、フワフワとしたもの、ぼんやりしたものになってきている。
コロナ禍のなか、明らかに老衰しつつある心身。そして、日々、希薄になってゆく”自分という存在の形”。

アイデンティティなるものを意識化し維持するための刺激も、それを求めようとする気力も見失い、半覚半睡・幽体離脱の態で、白濁した時間だけが沈殿してゆくようなのだ。

それでも、非日常の旅へと抜け出せば、いっとき、私が私であったことを思い出すような時間…かつてあった自分の形をなぞって確かめる機会に出会ったりすることもあるのだ。

今、旅から日常に戻り、秋の八幡平の写真を眺めていると、現時点の現実との乖離に、疼きに似たものを感じる。

2020年秋…コロナ感染者数の増加が国会論戦の焦点になっている今、極めて内向きな旅の時空間で味わった束の間の生命感の感触について、名残り惜しくも、また疚しくも思い起こしている。

(自分が自分でありたいと志向すること…それだけにかまけること…はどこまで許されるのだろうか?)

 

 

【八幡平の高原で:10月15日の写真から】

 

 

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ツタウルシの黄葉(紅葉?)        くす玉のようなツメクサの花

 

 

 

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今は盛り…キャラメル色のカツラ      やがてすがれてゆく緋色

 

f:id:vgeruda:20201125211653j:plain 秋の「七滝」

 

 

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小さなキノコたち             歌う樹?

 

 

f:id:vgeruda:20201125211736j:plain ウメバチソウ

 

f:id:vgeruda:20201125211749j:plain モンキチョウ

 

 

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            ~「森の大橋」から望む~               

 

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漣のような木肌と紅葉           蝋燭の炎のような…       

 

f:id:vgeruda:20201125211840j:plain変身したコバイケイソウ

2020年の秋:八幡平②

 

f:id:vgeruda:20201117211540j:plain黒谷地(くろやち)湿原 (八幡平 11月14日)

 

 

コロナ感染拡大の不安を感じつつ、旅に出ることの心疚しさ。
さらに自身の体調不安も残っていた。

それでも、旅の誘惑に逆らいきれなかった。
それほどに、11月の空気の肌触りは格別だ。

長い夏の記憶が遠のき、ようやく充ち足りた季節にたどり着く…肌に記憶されている懐かしい感触が呼び覚まされる。

それは、旅空のもと、突然、湧き上がってくる気持ちにも似ている。
縮こまった心が、思い切り自由な呼吸を得て解き放たれ、はるか空の彼方へと羽ばたく。私が消えてゆく。何と心地よいのだろう…。

 

旅先の八幡平では、眼の前に黒谷地(くろやち)湿原が広がった時もそうだった。


うまく言葉にできないけれど、心の中には、生まれた時から”帰ってゆきたい場所”というものが用意されていて、私はきっと、その場所に出会うため、現実の世界を生きているに違いない…そんなふうに感じてしまうのだ。

その場所は、探すわけでもなく、突然、風景の形をとって眼の前に出現する。
なぜ、そこに帰ってゆきたいのか、説明ができないけれど、出会えば分かる。
わけもなく懐かしい…何ものにも束縛されない…こんなにも自由…そういう場所なのだ。

 

 

【八幡平の高原で:10月14日の写真から】

 

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アオゲラの後ろ姿(14日朝。県民の森で)

 

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ヤマハハコ(?)             ニッコウキスゲ  

 

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(貴方の名前は?)            マイヅルソウ

 

 

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チングルマ                エゾオヤマリンドウ

 

 

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シラタマノキ               オオカメノキ

 

 

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イワカガミ                ツルリンドウ

 

 

 

f:id:vgeruda:20201117211821j:plain光泡立つ沼

 

 

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ハンゴンソウ               オオシラビソ(アオモリトドマツ)

 

 

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八幡平の”亡者”              枯れ木と黄葉のドレス

 

 

f:id:vgeruda:20201118135012j:plain アザミ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 











 

 

 

 

2020年の秋:八幡平①

 

 

コロナ禍のなか、二度目の旅。
家族との旅が続く。

私は力持ちで、荷物持ちとしてかなり役に立つ。
なので、旅の道連れとしてできるだけ体調を整えなくては、と思う気持ちが有り余るのか、出発日まで、自信の無い体調への不安が続くことになる。


八幡平へと出かける前夜、炒めたピーマンを口にした途端、突然の吐き気に襲われた。
(卵アレルギーの私が、卵の成分を含んだ食べ物を口にした途端に広がってゆく、あの得も言われぬ不愉快な刺激…ホースの水で、身体の内側の全粘膜を勢いよく洗い流したいような不愉快さ…。これはまさかの悪夢に違いなかった。私の食事に卵成分が入る可能性は無かったから。)

しかし、おさまらない吐き気の先の嘔吐・下痢。その間に心悸亢進と発汗が加わり、足まで萎えて立ち上がれない。もう明日の旅は無理…と、やっとの思いで置き薬を飲み、ぐったりとベッドにもぐり込んだ。『何がいけなかったのだろう…』と悔やみながら。

しかし、身体から”何か悪いもの”がすべて排出されたのだろうか、翌朝、起きた時の気分は、まずまずのものだった。まさに憑物が落ちたように。

それでも、まだ食べ物を口にする勇気は無い。
足先もフワフワと心もとない。
おなかに力を入れ、大荷物を担いで朝の街に出る。そろりそろりと駅へと向かう。
今、旅に出かけようとしている…夢のようだ…。 

そして、旅先には、2020年の絵巻のような秋が待っていたのだった。

 

【八幡平の高原で:10月13日の写真から】

f:id:vgeruda:20201111212135j:plainゲンノショウコ?:種を飛ばすための、フランス王家の紋章を逆さにしたような独特な形が眼を引く。

 

f:id:vgeruda:20201111212209j:plain森の中で出会ったのは”火消しのリス”

 

f:id:vgeruda:20201111212327j:plain黄色の落ち葉:木の葉は、秋にはそれぞれ自分だけの色を得て、終わってゆく。

 

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プラチナブロンドの髪:風のいたずらで、この場所に。