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私の第三十四夜をつづります。

♫ みいちゃん ♫ だったの?

 

 

寒い日が続く。風が冷たすぎて首がすくむ。

安曇野の友人のメールには、「明日は-8℃になりそう…」とあった。
こんな時、つい口ずさんでしまう童謡… ♫ 春よ来い! 早く来い! 歩き始めたみよちゃんが… ♫ 

そうなのだ。
子どもの頃からこの年齢までずっと、歩き始めたのは”みよちゃん”と思い続けてきた。

でも、今日初めて、それは”みよちゃん”じゃない…”みいちゃん”なのだよ、と知った。

なんと…。

勘違いが過ぎる。

そうか、”みよちゃん”であれば、その女の子は「みよ」ちゃんか「みよこ」ちゃんに限られてしまう。
でも、”みいちゃん”なら、「み」がつく名前の女の子がいっぱい当てはまるのだ。

それでも、何だか、親しかった”みよちゃん”がどこかに行ってしまったみたいで落ち着かない。

何なら、私だけがこの先も、”みよちゃん”と春を待ち続けていこうか。
願わくば、来年こそ、”みよちゃん”とコロナ禍のトンネルを抜け出て、ホンモノの春のなかへとお出かけしたい。

 

ビルの谷間に咲くサクラ(2月17日の夕方)

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密室で選ばれた後継者は、密室で自分の後継者を選ぶ。

 

今日12日の朝刊1面 top の記事に、二人の長老の顔が同じ大きさで載っていた。

それぞれのタイトルは
「森・五輪組織委会長 辞意 女性蔑視発言で引責 相談役で残留へ」「川淵氏を後任指名、受諾」

 

あの時のことを思い出さずにはいられない。
あの時も、”突然の病に倒れた首相の後継者”について、党有力者の数人が密室で会談し、次の総裁・次の首相が誕生したのだった。
あの時も、『この人たちは、こんな形で、こんなふうに選んでしまうのか?』と思った。
あの時も、密室談合で誕生した総理大臣というものの正統性について、大きな疑問符がついたことを覚えている。
あの時から20年余。

~今の居心地も悪くない。変われない。変わりたくない。このままでいたい。~ 

年齢を重ね、現在の私は、そんな気持ちも分からないではない(残念ではあるけれど)。
そして、どうしても変われないなら、適切な形で適切な人に代わってもらうことならできるはず、と思う。

なので、

~代わるべき時が来たら、代わりましょう。そして、新しい人に、新しい世界に向かって、今の世界を変えていってもらいましょう~

 

 

潜んでいたものが。

f:id:vgeruda:20210211140123j:plain夕方のオキザリス(2月9日 人魚姫の公園で)
 

このところ、南のベランダでは、植木鉢が並んで日光浴する時間が長くなった。
私も、こんなふうに、屈託なく季節を楽しみたい…。

しかし、人々がコロナ禍以前のように暮らし、それぞれの活力を取り戻し、コロナ禍の時代を回顧できるようになるのは、ずっとずっと先のことのようだ。

諦めと覚悟、そして希望…。

 

昨年来、心も身体もはっきりと衰えつつあるなかで、今年の1月半ば、顔じゅうに噴き出した酷いヘルペス症状に驚くことになった。今、我が身を振り返って思う。

心と身体の衰えの果てに、その劣化した存在の奥に潜んでいた”病むもの”が、忌むべき膿の形となって一気に噴出してくるのだな、と。そして、眼をそむけたくなるような”膿”はずっと、私の存在の中にあったのだな、と。

このことは、突然のコロナ禍によって、私たちの社会の奥底に長らく潜んでいたものが炙り出され、眼に見える形となって人々の眼にさらされ、否応なく人々の認識の変容を迫っていることと、少し似ている気がする。

 

さて、私という一個体の「パンドラの箱」の中には、ごくごくささやかな”希望”は残っているのだろうか。

ベランダの植木鉢の中には、淡々とした”希望”が残っていそうに見える。

そして、人々の社会というものが、その深部に潜んでいた禍の発現に戸惑いつつも、その葛藤に拮抗するような多様な”希望”の芽を、新たに次々と生み続けてゆくことを願わないではいられない。

そう思うことが、私が抱く”希望”なのかもしれない。

 

f:id:vgeruda:20210211140135j:plain空一面のウロコ雲(2月10日) :
夕方、外に出ると、どこまでもどこまでも、空一面にウロコ雲が広がっていた。不思議な空だった。その後、用事が済んで、再び空を見上げた時には、あのウロコ雲はどこにも見当たらず、軽やかな水色の空に小さな白い雲が一つ二つ浮かぶばかり。あの天上を覆いつくしていたウロコ雲はどこに、どのように消えていったのだろう?

 

初めまして、”グリア・ガースン”

 

 

一昨日、恥ずかしいので小さな声でつぶやくように豆まきをした(鬼とともに、コロナにも退散願いたいと願いつつ)。

立春を経て、今日は春一番が吹き荒れた。

ベランダの洗濯物の影が大きく揺れ、そのまま飛び去ってゆきそうだった。
その不穏な動きを気にしつつ、しばし、古い映画を眺めて過ごした。

タイトルは『心の旅路』…子どもの頃の記憶のどこかに引っかかっていた映画。
(どんな映画? 見たことは? 『かくも長き不在』とごっちゃにしている?)

いざ観始めると、どうも一度も観たことがない…たぶん…ということが分かった。
そして、しだいに引き込まれていった。

やがて、観る人に不意打ちを食らわせるように、夜の外気の霧とともに、謎めいた美しい人が登場した。その場面で『あっ!』と思った。

『もしかしてグリア・ガースン?』と感じたのだ(で、その”感じ”は当たっていた)。

グリア・ガースン…小さい頃にその名を聞き知っていたけれど、実際にその映画を観たことはなかった。
(何かの機会に彼女の写真を見たことはあり、イギリスの女優さんということは知っていた。そのツンとした透き通った美しい表情が、子どもの私が抱いた印象の全てだった。)

長らく思い込み続けたイメージは、映画を観終わってみると、すっかり別のものに入れ替わっていた。

知的ではあるけれど、冷たくはなかったし、「ツン」とした瞳の表情は一瞬強くひらめくものではあったけれど、本当に一瞬のものでしかなかったのだ。

私が思い描いていた”グリア・ガースン”は、長らく、氷のような、雪のような結晶であったのに、今や、やわらかな花びらに変じてしまった。

不思議な感慨。
さよなら。私が思い込み続けていた”グリア・ガースン”。
初めまして。気高くも花びらのような”グリア・ガースン”。

 

 

公園の桜のつぼみ(立春の2月3日)

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もうすぐ春が ♪

f:id:vgeruda:20210131221921j:plain1月30日の空

 

 

昨秋から職務怠慢を決め込んでいた胃を、年を越えてようやく少し飼いならしはじめた…と思っていた。

気が緩んだとたん、いつになく、口唇ヘルペスを悪化させてしまった。それも、処方された薬を飲み終わると、何とか一段落したようだった。

 

30日は風もなく温かな日になった(日陰にさえ入らなければ)。

気分転換しようと、午後、水辺の楽校に出かけた。

 

相模川の堤防から見る富士はバタークリームを塗ったように白く、大山は青い屏風のような山並みを広げている。

穏やかな流れの向こう岸近くには、オオバンやカンムリカイツブリののんびりとした姿。

 

川べりの広々とした畑は、小さな緑を生やしたり、球根を宿したりして、近づく春を待っていた。

冬枯れ色の道をたどれば、左右の藪のなかでアオジたちが啼きかわし、いち早く飛び立っては、再び藪深く身を隠すのだった。

また、川の水が流れ込む小さな水溜まりを目掛け、キジバトたちが飛来する。やがて、その順番を待つようにヒヨドリたちがやって来る。そして、水溜まりの奥でチャチャっと素早く水浴びするのだった(それは、”カラスの行水”より短い)。

いいな。みんな。
みんなの時間に、コロナなんか関係ないや。
もうすぐ春がやって来るね。

それは、光あふれる季節だね。

 

f:id:vgeruda:20210131221943j:plain春を待つ”お花畑”のなかを走り回るハクセキレイ

 

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待ち針のように小さなトゲナシノイバラ(?)の実


 

 

 

 

 

 

虚ろで哀しい”うわごと”

 

2021年1月も終わろうとしている。
もうすぐ春が来て、また夏がやって来る。

世界が新型コロナウイルスに覆われてから一年。

今なお、弱々しい”うわごと”が繰り返し聞こえてくる。

♫ 五輪は? と問えば ♫

 「安心・安全な大会を目指し…」
 「人類がコロナウィルスに打ち勝った証しとして…」

耳の穴に虚ろな響きが木霊する。
理解不能な言葉は、アオバトの啼き声のように哀しいものだ。
(そういえば、あの「カオナシ」が発する声も、アオバトのように哀しい響きだったような…)

日本政府は、昨年来、コロナウィルスに打ち勝つ意欲を示し続けているけれど、このところの私は、昨冬の蜂窩織炎、現在の口唇ヘルペスと、細菌やウイルスに負け続けている。

正直、うんざり。

私も、ぜひ、細菌とウイルスに打ち勝った証しとして、安全・安心な日々を過ごしたい…今夏と言わず、今すぐに。

【人魚姫の公園で(1月25日)】

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黄色の「クロード・モネ」         固くつぼんだ「織姫」

 

 

前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦のこと。

 

相模国府について学んでいた頃、市内で発掘・調査されたさまざまな遺構や遺物の性格・背景について、あれこれ想像(妄想)して飽きなかった。

来る日も来る日も、妄想していた。
平塚市史 別編 考古』の抜刷をヨレヨレになるまで使い込んだ。さまざまな資料から得た雑多な情報を、その抜刷や基礎資料集成や新旧の地形図などに書き込んでは妄想の網を張りめぐらした。

また、調査報告書を読むことにも果敢に(?)挑戦した。しかし、学問というものの基礎・土台を欠いていたので、結局、ほとんど理解できなかった。それでも、本当に楽しい時間だった。

そうした生活から遠のいて、10年以上の時間が過ぎた。
今の私ができることと言えば、ネット上で時たま出会って気になったことを書き留めておくことぐらい。

先日、いつものようにネット上で眺めていた論考(「陸奥国色麻郡所在の渡来仏ー船形山神社御神体をめぐってー」門脇佳代子 渡邊泰伸 2016年『東北福祉大学紀要』第40巻)に、シンプルな古代瓦の写真が載っていた。それは素弁八葉蓮華紋軒丸瓦の写真だった。

気になったのは、そのシンプルな文様の瓦が、前鳥神社平塚市蔵の瓦と似ている?…と思い出したからだった(古代瓦について、およそ何の知識も持たないというのに大それた関心だ)。

ネット上の韓国出土の瓦の写真に、ちょっとワクワクしながら、その報告(「平塚の古瓦ー高林寺境内出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー」岡本孝之 新倉香 2003年 平塚市博物館研究報告『自然と文化』№26)の抜刷を探し出した。

意気込んで、ネット上の素弁八葉蓮華紋軒丸瓦の写真(図12 福島市 腰浜廃寺出土、図13 広島市 寺町廃寺出土、図14 熊本市 鞠智城出土、図15 韓国 扶余市 軍守里廃寺出土)と、抜刷の素弁蓮華紋軒丸瓦(第10図 前鳥神社蔵瓦(3)軒丸瓦・垂木先瓦)を見比べる。

 

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前鳥神社蔵瓦(「平塚の古瓦ー高林寺境内出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー」岡本孝之 新倉香 2003年 平塚市博物館研究報告『自然と文化』№26から)

 

素人の眼でザックリと(つまり当てずっぽうで)見比べると、抜刷の前鳥神社蔵の軒丸瓦(第10図の7は、ネット上の写真(図12~図15)の寺町廃寺(広島市)出土の瓦(図13)、もしくは軍守里廃寺(韓国)出土の瓦(図15の2点のうち、右側の1点)に似ているように見えた。

次に、うろ覚えだった前鳥神社蔵のシンプルな軒丸瓦について、復習してみた。

抜刷の論考の流れから推定すると、前鳥神社蔵の軒丸瓦(第10図の7)は、飛鳥寺式の軒丸瓦(「第11図 素弁蓮華紋軒丸瓦(奈良国立文化財研究所1998より引用)」)との比較から、「飛鳥寺Ⅰa式(桜花形花弁「花組」)」の瓦に通じるものと考えてよさそうだった。

また、ネット上の論考の流れでは、素弁八葉蓮華紋軒丸瓦は、7世紀後半の陸奥国における渡来系移民の活動を示唆する、傍証資料のような位置づけで紹介されているのだった(論考のテーマは、あくまでも”陸奥国色麻郡所在の渡来仏”としての船形山神社御神体であって、古代瓦ではないのだ。)

ここで、いつものように安易な私の妄想が始まる。

ネット上の論考のタイトル「陸奥国色麻郡所在の渡来仏ー船形山神社御神体をめぐってー」のなかの、「色麻(しかま)郡」の文字に引っかかりを覚えたのだ。

まず、古代の「陸奥国色麻郡」には、移民郷として”相模郷”が存在したことが知られている(『和名類聚抄』には、色麻郡の郷名として「相模」・「安蘇」・「色麻」・「余戸」が載る)

また、現在の宮城県色麻町の北東約15㎞に位置する三輪田遺跡古川市長岡)からは、「大住団」と推定される文字が記された木簡が出土しているのだ(「大住団」は、相模国大住郡に置かれた軍団の名。また、現在の平塚市は大住郡に含まれる)

つまり、宮城県古川市辺域相模国府について学ぶ者にとって、見過ごせない地域なのだった。
この点についても、20年前の企画展の図録『東へ西へ 律令国家を支えた古代東国の人々』〔2002年 横浜市歴史博物館〕)を頼りに、改めて復習することになった(それにしても、手持ちの資料はすでに、ふた昔前のものばかり…)。

過去に学んだことを朧気に思い出しながら、7~8世紀の宮城県古川市辺域には、相模国の人々や、相模国を経由した人々が移り住み、新しい生活を切り開いていったのだな、と改めて遥かに想いをめぐらす。

妄想はさらに飛躍する。

『例えば、韓半島の瓦制作技術を持った人が、移民政策のもと、相模国経由で陸奥国へと移住した可能性のなかで、瓦制作のためのサンプルとして瓦製品を持ち運んでいたかもしれない。そのサンプルのなかに、前鳥神社蔵の軒丸瓦も含まれていて、何かしらの事情で、相模国府域やその周辺のいずれかの地点に遺されることになった?』などという妄想に。

もちろん、前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦が、いつ、どこで、どのように作られたのか、或いはまた、いつ、平塚のどの地点に、どのようにもたらされたのか、明確なことは分かっていない。

しかし、『平塚の古瓦ー高林寺出土瓦と前鳥神社蔵瓦ー』の論考においては、前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦の出自は「あまり明確でない」とされつつも、「大住郡内の初期寺院の存否にかかわる」として、今後の課題がはっきりと提示されている。

そうなのだ。
相模国府域やその近辺に初期寺院が存在したのならば、相応の時期の瓦が掘り起こされるはずなのだった。しかも、かなり大量に…。

今後、”前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦”は、このままひっそりと収蔵されるだけで終わってしまうのか…それともいつの日か脚光を浴びる時が来るのか…私の妄想と期待は続く。

 

【追記】

今回、古代の瓦について、ふと思い出したことの一つに、沼田頼輔氏による「相模國府遺址に就いての一考察」(『考古學雑誌』第17巻第6号〔1927年6月5日 日本考古学会〕 )という論考があり、久しぶりに読み返してみた。 

この論考のなかで、沼田頼輔氏は「相模の國府の大住郡大根村【註】八幡の附近にあることを豫定して居つた」と記している。【註:正しくは「大野村」と思われる】

この「大住国府=平塚」説は、やがて、鋭く卓抜なものだったことが分かる。
その後、平塚市内の発掘調査は進展し、2004年に至って、平塚市四之宮で相模国庁跡が発見されたのだ。

つまり、相模国庁跡が掘り起こされた四之宮地区は、南の「八幡」地区と接していて、沼田頼輔氏が、約80年前に「八幡の附近」と想定したことが、ほぼ的中していたことになる。

そして、相模国府が「八幡の附近」に存在する…と想定した氏の論考は次のように続く。

 「…ところが、偶然にも昭和二年十月、友人が地質研究のため、この地方を蹈査した、大根村【註】八幡と四宮との陸地測量部標杭所在地の附近に於いて、平安時代の古瓦の破片を發見して、余に贈られたので、愈(いよいよ)こゝにこの時代に於いて、寺院か官廳かは未定なるも、少なくともこの時代の建築物のあつた事を認めたのである。余は姑(しば)らくこの建築物を以つて、國府関係のものであることを認めて置く。」
【註:正しくは「大野村」と思われる】

ここで、沼田頼輔氏が言及している平安時代の古瓦」については、すぐに平安時代相模国府関係の建築物に結びつくような質・量であったのか、今となっては知り得ない。
(ちなみに、以前、この論考を眼にした際に、平安時代の古瓦」が発見されたという「八幡と四宮との陸地測量部標杭所在地の附近」とは具体的にどの地点だろう?と、少し思い巡らしてみたことがあった。
「標杭」なるものを設置する場所の目安として、公共的で変動の少ない建造物が選ばれるとすれば、そうした建造物としての”北向観音堂”を含む、現在の坪ノ内遺跡の一帯だろうか?というのが、当時の私の…根拠無き…推定だ。)

こうして、今回も「分からないことが分かった!」という堂々巡りに終わることとなった。

ただ、今回の前鳥神社蔵の素弁蓮華紋軒丸瓦から積極的な問題提起がなされているように、平塚市内出土の古瓦の調査結果から(せめて、四之宮・八幡地区の出土現況から)、どのような問題提起が成り立つのか、それを知りたいものだ…という思いが湧いてきたのだった。

(それにしても、「大住国府=平塚」説を提唱した沼田頼輔氏を含め、さまざまな相模国府説を展開した人々のほとんどが、2004年の相模国庁跡発見という画期的な考古学的成果を見届けることが叶わなかった。
結局、誰もが、その限りある人生のなかで、未来に達成されるはずの画期的な調査結果を、心行くまで見届けることは叶わないのだなぁ…。)